フロイトとの決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/28 00:58 UTC 版)
「オットー・ランク」の記事における「フロイトとの決別」の解説
実の父子よりも信頼し敬愛し合ってきたランクとフロイトの関係が悪化するのは、1919年にランクがポーランドからウイーンに戻ってから後のことだ。決別の背景は複雑で、過度の単純化は却って真相から遠のく結果になるかも知れない。ここでは決別の原因になったと考えられるいくつかの事実を羅列するに留める。 ランクは、ウイーンに住んでいたこともあって「委員会」のメンバーの中で特にフロイトに近く、それだけに他のメンバーからの羨望を受ける立場にいた。 ランクとサックス以外の「委員会」のメンバーは医学の学位を持っていた。 徐々に形作られてきたランクの理論はフロイトの理論と根幹において異なるものであった(詳細は「ランク理論とその影響」のセクションを参照)。要約すれば、ランクの理論は母と子供の関係に、フロイトの場合は父と息子に焦点を置く。フロイトが性的な欲望の抑圧というアイディアに囚われたのに対して、ランクにとっては誕生の時から始まる死への恐れと不死への欲求が人間の実存的な問題となる。 しかし、フロイト自身がランクとの理論の違いにそれほどこだわっていたという証拠はない。フロイトが、ランクのDas Trauma der Geburt(出生のトラウマ)のアイディアを耳にした時、フロイトは「精神分析に発見以来もっとも重要な進歩だ」といったと伝えられる(Kramer, 1996: 12)。1923年に原稿を読んだ時も(出版は1924年)、フロイトの評価は賞賛と態度保留の間を揺れていた(Webster, 1995: 393)。 「委員会」の他のメンバー、アブラハムとジョーンズは、ランクの理論がフロイトの理論を否定するものであることを読み取り、『出生のトラウマ』を強く批判した。強硬派に説得されて、フロイト自身も最終的にこれに賛同することになる。
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