フレイザー政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:20 UTC 版)
「オーストラリアの歴史」の記事における「フレイザー政権」の解説
ソ連のアフガニスタン侵攻を巡って米ソが対立するなど、世界は「新冷戦」と呼ばれる緊張状態を迎えていた。フレイザーはソ連によるインド洋進出の動きに対抗し、国内の海軍基地を米軍に使用させるなど、反ソを軸とする対米関係強化に努めた。また、南アフリカ共和国のアパルトヘイトを指弾し、ジンバブエ独立を支持するなど、イギリス連邦内での問題で影響力を行使した。その一方で、ASEAN諸国からの強い要求に応じてヴェトナム難民を大量に受容したことが示すように、ASEANとの関係を重視し、アジア太平洋経済協力 (APEC) の設立を提唱するなど、第三世界発展の主導者として自国を位置付ける戦略を採った。 内政では、前政権が残した課題であるインフレの抑制に取り組み、緊縮政策に舵を切った。一時は景気も上向いたが、その矢先に第2次石油危機が発生した。これに対処するため、財政出動を実施した結果、再び物価は上昇に転じた。1980年10月の選挙では労働党に追い上げられ、1981年4月には、後継者と目されていた労使関係相ピーコック (Andrew Peacock) が造反した(1982年10月、商工相として再入閣)。求心力の低下したフレイザーは1983年3月5日、野党労働党の内紛に乗じて総選挙に踏み切り、政権の維持を図ったが、あえなく敗北して総辞職に追い込まれた。
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