フランシスコ・ザビエルとイエズス会とは? わかりやすく解説

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フランシスコ・ザビエルとイエズス会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:13 UTC 版)

日本のキリスト教史」の記事における「フランシスコ・ザビエルとイエズス会」の解説

ザビエルは、ヤジロウコスメ・デ・トーレスジョアン・フェルナンデスとともに8月15日(この日は「聖母マリア被昇天祭日」に当たり、ザビエル日本聖母マリア捧げた。)鹿児島上陸し2年3か月わたって宣教活動行ったザビエルは「日本国王」(天皇)の宣教許可得よう薩摩藩から平戸山口、堺を経てにたどりついたが、当時京都戦乱寂れきっていた。天皇権威失墜しており、征夷大将軍不在であったため、ザビエル目的果たせなかった。その後言語や文化違いなど多大な困難を乗り越えながら、徐々に日本人協力者を得ることができ、700名ほどに洗礼授けた各地旅する中で、ザビエル日本文化中国大きな影響与えていると見抜き中国宣教志して広東の上川島上陸したが、中国本土目前にして病没した。 日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部さらなる宣教師派遣依頼。それに応えて優秀な人材積極的に日本送られた。ザビエル以降ガスパル・ヴィレラルイス・デ・アルメイダ豊後府内日本最初病院開設)、ルイス・フロイス織田信長豊臣秀吉会見し、『日本史』を記す)、ガスパール・コエリョなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動あたったまた、ザビエル日本の首都神学部法学部ならびに医学部兼ね備えたカトリック系総合大学建学するという夢を抱いていたが、彼の夢は1913年イエズス会士によって上智大学東京建学したことによって叶えられた(ただし、上智大学において医学部設置されていない)。なお「上智」とは「ソピアー」の訳である。

※この「フランシスコ・ザビエルとイエズス会」の解説は、「日本のキリスト教史」の解説の一部です。
「フランシスコ・ザビエルとイエズス会」を含む「日本のキリスト教史」の記事については、「日本のキリスト教史」の概要を参照ください。

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