フランシスコ・ザビエルとイエズス会
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「日本のキリスト教史」の記事における「フランシスコ・ザビエルとイエズス会」の解説
ザビエルは、ヤジロウやコスメ・デ・トーレス、ジョアン・フェルナンデスらとともに8月15日(この日は「聖母マリアの被昇天の祭日」に当たり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。)鹿児島に上陸し、2年3か月にわたって宣教活動を行った。 ザビエルは「日本国王」(天皇)の宣教許可を得ようと薩摩藩から平戸、山口、堺を経て京にたどりついたが、当時の京都は戦乱で寂れきっていた。天皇の権威も失墜しており、征夷大将軍も不在であったため、ザビエルは目的を果たせなかった。その後、言語や文化の違いなど多大な困難を乗り越えながら、徐々に日本人協力者を得ることができ、700名ほどに洗礼を授けた。各地を旅する中で、ザビエルは日本文化に中国が大きな影響を与えていると見抜き、中国宣教を志して広東の上川島に上陸したが、中国本土を目前にして病没した。 日本人を「もっとも優秀で理性的な国民」であると評価したザビエルは、イエズス会本部にさらなる宣教師の派遣を依頼。それに応えて優秀な人材が積極的に日本に送られた。ザビエル以降、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・デ・アルメイダ(豊後府内に日本最初の病院を開設)、ルイス・フロイス(織田信長や豊臣秀吉と会見し、『日本史』を記す)、ガスパール・コエリョなどのイエズス会員が日本に来航し、布教活動にあたった。 また、ザビエルは日本の首都に神学部、法学部、ならびに医学部を兼ね備えたカトリック系の総合大学を建学するという夢を抱いていたが、彼の夢は1913年にイエズス会士によって上智大学が東京に建学したことによって叶えられた(ただし、上智大学において医学部は設置されていない)。なお「上智」とは「ソピアー」の訳である。
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