フジテレビ入社から退社まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:11 UTC 版)
「すぎやまこういち」の記事における「フジテレビ入社から退社まで」の解説
フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる『ザ・ヒットパレード』を企画。当初は「ヒットパレード系の番組はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集にナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て放送にこぎつけた。このいきさつは後年『ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜』としてドラマ化された。当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。また、1964年から2010年までの長年に渡り、正月・元日の看板番組になっていた大型バラエティ番組『新春かくし芸大会』もすぎやまと渡辺の2人が主導する形で制作・放送されていた。 上記の『おとなの漫画』『ザ・ヒットパレード』に関しては、ニュース性があり、それゆえに確実にネタ切れしないだろうと考えていた。 1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように苦慮するようになり、またJASRACとフジテレビが著作権料の支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月にフジテレビを退社した。
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