フサイン・シャーヒー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/13 08:09 UTC 版)
「ベンガル・スルターン朝」の記事における「フサイン・シャーヒー朝」の解説
1493年、アビシニア人奴隷の王朝(シャーフザーダ朝)は王位をめぐる争いにより滅亡し、同年その宰相アラー・ウッディーン・フサイン・シャーが貴族に選出されて新たな王となり、フサイン・シャーヒー朝を創始した。フサイン・シャー自身はベンガルのムルシダーバード出身だったが、その親はトルキスタンを経由してベンガルに来たメッカ出身のアラブ人だった。 1479年、隣国のジャウンプル・スルターン朝がデリー・スルターン朝のローディー朝に滅ぼされたのち、ベンガル王国にもその侵略が及ぶと彼は数次にわたって戦い、1495年にローディー朝と領土の現状維持の協定を結んだ。また、フサイン・シャーはオリッサのガジャパティ朝とも領土を争い、その治世を通して戦い続けた。 フサイン・シャーは内政面では成功をおさめ、政治を長年支配してきたアビシニア人を排斥し、ヒンドゥー教徒とムスリムを平等に扱い、ヒンドゥー教徒も政府の重役に任じた。また、その治世は文化が栄え、ベンガル語やベンガル文字が広く使われ、多くの詩人や学者が輩出された。そのため、彼の治世は中世ベンガルの黄金期と評されている。 1519年にフサイン・シャーの死後、新たな王となったナーシルッディーン・ヌスラト・シャーは近隣諸国への失敗はしたものの、公共事業を進め、モスクや聖廟を建設し、交易で国家は繁栄した。 しかし、1526年にローディー朝がムガル帝国との戦いで滅亡すると、ヌスラト・シャーはイブラーヒーム・ローディーの王弟マフムード・ローディーを支援した。その後、1529年5月6日にムガル帝国の軍とガーガラ川で戦い大敗した(ガーガラ川の戦い)。 1532年、ヌスラト・シャーは暗殺され、あとを継いだその息子アラー・ウッディーン・フィールーズ・シャー2世も同年に死亡し、その叔父ギヤースッディーン・ムハンマド・シャーが王となった。 しかし、ベンガル・スルターン朝はムガル帝国とアフガン系スール族の族長シェール・ハーンとの争いに挟まれ、1538年にムハンマド・シャーはそうした混乱の中で死亡し、フサイン・シャーヒー朝は滅亡した。
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