フィクションでの透明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/08 09:11 UTC 版)
「透明になれたら」という空想は古来、洋の東西をとわず広く存在する。たとえば妖精やコロポックルが姿を隠す話、天狗の隠れ蓑の話など、民話では姿を隠していたずらや悪さをするものの存在が語られている。 近代になると、SFやホラーの世界において、フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『あれは何だったのか』(1859年)、H・G・ウェルズの『透明人間』(1897年)のような架空の怪物やガジェットとしての「透明な存在」が発想され、以来、小説や映画で度々取り上げられる題材となった。こうしたフィクションにおける透明の理屈付けは、「その生物・物体を可視光線が透過する」「異次元的な存在であるため体色を人間の視覚が捉えられない」「幻術や特殊能力で見る側に居ないと思わせている」「擬態や光学迷彩により周囲・背後の光景に紛れている」などとされる。 詳細は「透明人間」を参照 光学迷彩のように、現実の科学技術がSFにおける「透明」をある程度実現しつつある分野もある。 現実には、完全に透明な存在というのは不可能である。よくある指摘として、もし透明人間が存在したとすると、眼球が100%光を透過してしまうため理論上は目が見えないことになる、というのがある。見えるようにするためには、光を眼球で屈折させ、網膜で吸収させる必要がある。これらの組織を透明にすることができたとしても、光が屈折・吸収されているため、「そこに何かがある」ということがわかってしまう。
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