ビル・ジャンス(1964年-1977年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/14 08:47 UTC 版)
「サンバレー (アイダホ州)」の記事における「ビル・ジャンス(1964年-1977年)」の解説
第二次世界大戦後、ハリマンはその関心を政府関連のものに移し、ユニオン・パシフィック鉄道は次第にリゾートに対する関心を失っていった。1964年にはケッチャムまでの鉄道が廃線となり、その年の11月に、リゾートは南カリフォルニア不動産開発業者のジャンス投資会社に売却された。この会社はアルペンスキーの元オリンピック選手であり、スノーマススキー場の設立者だったビル・ジャンス(1918年-1996年)が経営していた。ジャンスは1940年冬季オリンピックの控え選手だったが、オリンピックそのものが第二次世界大戦のために中止になった。ユニオン・パシフィック鉄道の経営陣がジャンスの会社をコンサルタントとして招聘し、改装のためには多くの労力と、少なくとも600万ドルの資金がいると判断した。ユニオン・パシフィック鉄道は売却を決め、エドとビルのジャンス兄弟が300万ドルを切った額で入札した。このジャンスがオーナーであった時代に、北面のウォーム・スプリングス地域やシアトルリッジが開発され、集合住宅や家屋の建設数が著しく増加した。チェアリフト7基が追加され、トレイルの数は33から62に増えた。ビル・ジャンスが兄弟の持ち分も購入して、1968年にはサンバレーを完全に支配した。シアトルリッジでは二人乗りのチェアリフトが1976年に設置されたが、1976年から1977年の冬は雪が少なく、使い始めたのは1977年12月20日になってからだった。地元の伝説的スキーヤー、グレチェン・フレーザーが開通式を行った。ジャンスはフレンチマンのチェアリフトの左手に、「ジャンス・パス」という自分の名前をつけたゲレンデも持っていた。1973年、ジャンスの妻アンがサンバレー近くでヘリコプター・スキーをやっているときに死んだ。54歳だった。その年の後半、ジャンスはグレン・クーパー夫人と結婚した。夫人は家族ぐるみの友人の未亡人であり、5人の子供がいた。その子供の中にはワールドカップのレーサーで、1984年冬季オリンピック女子スキー大回転で銀メダルを獲得したクリスティン・クーパーがいた。
※この「ビル・ジャンス(1964年-1977年)」の解説は、「サンバレー (アイダホ州)」の解説の一部です。
「ビル・ジャンス(1964年-1977年)」を含む「サンバレー (アイダホ州)」の記事については、「サンバレー (アイダホ州)」の概要を参照ください。
- ビル・ジャンスのページへのリンク