パルミラの「女王」とは? わかりやすく解説

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パルミラの「女王」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:48 UTC 版)

ゼノビア」の記事における「パルミラの「女王」」の解説

ゼノビアの名前が初め史料に出るのは258年パルミラ一帯治め有力者であったセプティミウス・オダエナトゥス後妻として入った時となる。その後ゼノビアにとって初子となるルキウス・ユリウス・アウレリウス・セプティミウス・ウァバッラトゥス・アテノドラス(以下ウァバッラトゥス)も生まれたオダエナトゥスには前妻との間に1子(ヘロデス Hairan が有)。オダエナトゥスガッリエヌス帝に叛旗翻して皇帝僭称したティトゥス・フルウィウス・ユニウス・クィエトゥス討伐サーサーン朝首都クテシフォン2度攻め入る等の功績挙げてガッリエヌス信頼勝ち得た。それら遠征ゼノビアパルミラ軍に同行しただけでなく、軍装纏い、その智謀オダエナトゥス支えた267年オダエナトゥスが甥・マエオニウス (Maeonius) によって暗殺、またヘロディアヌス同時に殺害されパルミラNo.1及び後継者相次いで失う混乱状態に陥ったゼノビア仕組んだともされる)。ゼノビアウァバッラトゥスオダエナトゥス後継者据えと共に自らはその共同統治者となることで、一連の事態収拾することに成功したガッリエヌス在位253年 - 268年)の治世下より上述たような功績もあってガッリエヌスよりローマ帝国東部属州委任されていたオダエナトゥスは、パルミラ根拠地として既に半独立パルミラ帝国)の状態であった西方属州にはガリア帝国割拠北方属州へはゴート族等の北方異民族の侵入相次ぐ中、268年にはガッリエヌス暗殺された。 ゼノビアローマ迷走乗じる格好で「サーサーン朝侵略からローマ東部属州護る」という名目皇帝直轄領アエギュプトゥスエジプト)及びカッパドキアパレスティナカルケドン等のローマ東部属州都市に軍を派遣して次々と領土」を拡大していった。ゼノビアは自らを「エジプト女王」と称し、またこれらの事件から「戦士女王Warrior Queen)」とも呼ばれた実際にゼノビア騎馬術にも優れた才能示したという。ゼノビアカルタゴ女王ディードーアッシリア女王セミラミスプトレマイオス朝クレオパトラ後継者自称したとされる

※この「パルミラの「女王」」の解説は、「ゼノビア」の解説の一部です。
「パルミラの「女王」」を含む「ゼノビア」の記事については、「ゼノビア」の概要を参照ください。

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