パラシュート訓練と周辺住民への被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 14:49 UTC 版)
「読谷補助飛行場」の記事における「パラシュート訓練と周辺住民への被害」の解説
1950年代の時点では、大型化・ジェット化が進んだ空軍航空機の運用には読谷飛行場は適さないとして、代わりにパラシュート降下訓練施設として使われるようになった。その頃は、一部の管理エリアを除いて民間地と飛行場を隔てるフェンスなどは設置されておらず、周辺の地域住民が飛行場内で耕作をすることも、アメリカ空軍は黙認していた(もっとも、村の大部分が米軍基地に接収され、農耕地を失った住民が困窮する状態に陥っていたのが背景にある)。以降、飛行場ではパラシュート訓練が行われるようになったが、降下した物資が周辺の集落や農耕地に誤って落下するという事故も相次ぐようになった 。特に1965(昭和40)年6月11日には、投下した車両が風に流されて集落に落下、10歳の少女が下敷きになって死亡する事故が発生している。 1972(昭和47)に沖縄が日本に復帰すると、日本政府は在日米軍の要求に基づき、読谷補助飛行場(FAC6027)として米軍への提供を継続した[どうやって?]。 1976(昭和51)年の第16回日米安全保障協議委員会では飛行場の東側250.78エーカーの返還が決定、1977(昭和52)年5月14日に0.48エーカー、5月31日に0.19エーカー、1978(昭和53)年4月30日に250.11エーカーが返還された。残り約191エーカーは1978年7月27日にアメリカ空軍第5空軍から在沖米国艦隊活動司令部(COMFLEACTS Okinawa)に移管された。さらに、1980(昭和55)年9月には読谷補助飛行場の管理が在沖米国艦隊活動司令部から米海兵隊のキャンプ・バトラーに移管された。
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