バーソロミュー・ゴスノルド
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「バーンスタブル郡 (マサチューセッツ州)」の記事における「バーソロミュー・ゴスノルド」の解説
ヴェラッツァーノの後、北アメリカの東部はヌーベルフランスの領土となったが、フランスはそこを発展させられなかった。荒野の中で数十人の者による開拓地が散在しているだけであり、1608年にケベックが設立されてやっと支援が始められた。一方書類上の領有権だけでは事業家達を抑えられなかった。1602年3月、バーソロミュー・ゴスノルドがコンコード号でコーンウォールのファルマスを出港し、乗組員8人、探検隊12人、および開拓者20人を運んだ。新世界に交易拠点を設立するつもりだった。メインの海岸を過ぎた後は南に転じ、島と思われるものに遭遇し、プロビンスタウン港で停泊した。ゴスノルドはそこを始めにショール・ホープと呼んだが、それが岬であると分かり、ケープコッド湾では大量の群れからタラを捕獲できたので、名称をケープ・コッドに変更した。 ゴスノルドはケープを探検し、約1500人がいたノーセット族インディアンと良好な関係を築いた。この部族は本土のワンパノアグ族と言語や慣習で密接な繋がりがあり、その支配下にあった。探検隊の牧師ジョン・ブレレトンは、インディアンが色黒であり、肩につけた鹿皮と腰に巻いたシールスキン以外は裸同然であり、長く黒い髪を結び上げていると記した。彼等は体に化粧していた。幾らかの英単語を知っている者がいた。歴史上の扱いで問題はあるが、ゴスノルドとその仲間はアメリカに上陸した最初のイングランド人だと考えられている。ゴスノルドはインディアンが健康そうに見えたことを強調していた。 その後ゴスノルドは岬を回り、「樹木、蔓、グースベリーの藪、ブルーベリー、ラズベリー、ノバラなどで溢れ」、海岸に多くの野鳥がいる島を発見した。ゴスノルドは自分の娘に因んでその島をマーサズ・ヴィニヤードと名付けた。その近くにあった島、カティハンク島をイングランド王エリザベス1世に因んでエリザベス島と名付け、そこからエリザベス諸島と呼ばれるようになった。ゴスノルドはそこに交易拠点を設けるつもりだったが、帰りの航海に向かうときに、開拓者達は残らないことに決めた。1608年、ジョン・スミス船長がジェームズタウンへの遠征を行ったときに、ゴスノルドはその副官として2回目の新世界行きに挑戦した。しかし3か月間そこに滞在した後に、マラリアで死んだ。
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