バルトは燃える
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 17:06 UTC 版)
「エルンスト・フォン・ザロモン」の記事における「バルトは燃える」の解説
1919年、義勇軍はベルリンでの暴動鎮圧後、ワイマールで開かれた国民議会を極左の攻撃から護衛するために出動。しかし、ザロモンの心の中ではローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトら極左虐殺の血生臭いベルリン市街戦の炎が燃えていた。ベルリンからの転進は敵前逃亡のように思われた。政府の傭兵と言えども、義勇軍の心情は決して政府に忠誠を誓っていたわけではない。その心情において市民規範の世界から逸脱していた彼らにとっては、ワイマールにおける国民議会での議論など、全く無意味な別世界の事柄に過ぎなかった。彼らが心から忠誠を誓うドイツは、ベルリンにもワイマールにも存在しなかった。それは戦線にあった。だが、戦線は崩壊してしまって今はない。かつてはそれは故郷にあった。だが、故郷は、祖国を裏切った。こうして義勇軍の将兵は、戦塵いまだ冷めやらぬ辺境の地に目を向ける。 辺境は燃えていた。燃える辺境が無法者たちの心をひきつける。 「 ドイツは辺境にあった! 」 こうして、1919年4月1日、ザロモンを含む28人はカイ(Kay)少尉を先頭に失われた心のドイツを求め勝手にワイマールの任務を捨ててバルトに向かう。 バルトへの義勇軍の出撃は赤軍と戦うラトビア共和国首相ウルマニスの要請によるものだった。2月1日にはこの要請に応えて義勇軍の司令官ゴルツ伯が既にリバウに着任していた。しかし、世界革命の大義名分の使命感に燃えて武器をとるボルシェヴィキ達とは違って祖国への帰属感情を失った無法者にすぎない義勇軍にはなんの大義名分もない。国民の誰一人としてこの出撃を委託したものはなく、祖国を表示する如何なるシンボルも義勇軍にはなかった。こうしてザロモンは、占領したバルトの土を感無量で握りしめる。
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