バフティヤーリーの襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/04 02:17 UTC 版)
「カンダハール包囲戦」の記事における「バフティヤーリーの襲撃」の解説
ホターキー朝の軍勢は包囲を前提にしてカンダハールに食糧をため込んでいた。1737年末から飢餓が広がり始めたが、ナーディルはカンダハールの食糧が底をつくにはしばらく時間がかかることを認識していた。なお彼はサファヴィー朝のアッバース3世を退位させ、自身がペルシアの統治者に即位したばかりであったため、包囲戦の最中しばしば戦線を離脱している。1738年3月23日、彼は人海戦術を採るためバフティヤーリー人(英語版)から3000人を募った。この時の指揮官に、バフティヤーリー人の中からムッラーの称号を得ていたアディネー・ムスタフィが選ばれている。 ナーディルは当初、彼が直面した脅威を理由にムッラーの参戦を断念させようとしていたが、当のムッラーは参戦の意志を曲げなかった。攻撃前夜、ナーディルは個人的にバフティヤーリーへ、攻撃が成功した暁には1000ルピーの報奨金と戦利品の山分けをすると宣言している。3月24日、バフティヤーリーたちはチェヘル・ゼナの崖に身を潜め、カンダハールに急襲を仕掛けた。要塞防衛のため見張り塔にいたパシュトゥーン人は応戦したが、大きな損害を与えることはできなかった。多くのバフティヤーリーは城壁に到達し、梯子を掛けて内部への侵入を試みた。ムッラーは真っ先に城壁の最上部へ到達したため、それを皮切りに城壁で激しい戦闘が勃発している。徐々に城壁はバフティヤーリーの手に落ち、要塞内部への侵入も開始された。その後彼らは城壁へ火砲を上げ、内部への砲撃を行い始めた。 パシュトゥーン人は要塞を奪取するため反撃に出たが、バフティヤーリーのジャザーイェルチ(ライフル銃兵)による猛射の前に倒れていった。フサイン・ホターク(英語版)と少数のパシュトゥーン人は戦意を喪失し、カンダハール後方の城塞へ撤退した。見捨てられたカンダハールの住民たちはペルシアの捕虜にとられるか、殺されている。ペルシア側は城壁に設置されていた大砲を奪い取り、城塞へ向けて砲撃を始めた。翌日、城塞に立て籠もっていたフサインたちはついに投降し、30年に渡ってペルシア一帯を支配したホターキー朝は滅亡した。
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