バター工場労働者からウエストポイントへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 22:19 UTC 版)
「ドワイト・D・アイゼンハワー」の記事における「バター工場労働者からウエストポイントへ」の解説
アイゼンハワーはアビリーン高校に入学し、1909年に卒業した。在学中に膝の怪我による感染症が脚の付け根まで拡がり、命の危険があると診断された。医師は足の切断を勧めたが、これを拒否し、後に奇跡的に回復したものの、1年留年した。 高校卒業後、兄のエドガーと共に大学進学を希望していたが、経済的に困難な状況であった。そこで彼らは、一方が大学に通い、もう一方がその年の授業料を稼ぐという取り決めをした。始めの年はエドガーが大学に通い、ドワイトはベルスプリングのバター工場で夜勤シフトの従業員として働き始めた。1年後、エドガーは連続で通学したいと申し出た。ドワイトは承諾して、引き続きバター工場で働くこととなった。 その時期に友人のハズレットが、無償で教育を受けられる海軍兵学校の受験を勧め、軍人になる決意を固め、カンザス州上院議員ジョゼフ・L・ブリストウの推薦を得ることに成功した。現在では、ブリストウ議員はアイゼンハワーの推薦人となったことで最もよく知られている。アメリカ陸軍とアメリカ海軍の入学試験に首尾よく合格したが、海軍は年齢制限のため入れず、1911年にウエストポイントにあるアメリカ陸軍士官学校への入学を決めた。以後、1969年に死去するまで、大統領であった8年間を除き、軍人としての生涯を過ごした。約束は果たされなかったが、兄のエドガーは無事ミシガン大学ロースクールを卒業し、やり手の弁護士としてワシントン州で開業している。
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