ハンガリー王即位後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/14 08:10 UTC 版)
「イシュトヴァーン5世」の記事における「ハンガリー王即位後」の解説
1270年5月3日にベーラが没すると、イシュトヴァーンはハンガリー王位を継ぎ、妹のアンナとボヘミア王国に接近する一部の貴族たちはアールパード王家の家宝を持ってプラハに亡命した。戴冠式の前にイシュトヴァーンはエステルゴム大司教に州の統治権を付与し、ドナウ川を境に東西に二分された王国の統一は形の上では回復された。しかし、ベーラの治世から続くローマ教皇のハンガリーへの介入はより深刻化し、ハンガリーの大貴族の中には教皇と同盟を結ぶ者もいた。また、自分の領有する城をボヘミア王国に差し出したバーン・ケーセギ・ヘンリクのように、領主の中には外国の支持を得て国王に対抗しようとする者も現れる。 1270年8月にイシュトヴァーンは義弟のクラクフ公ボレスワフ5世と会見を開き、ボヘミア王国への共同攻撃に同意した。10月16日にイシュトヴァーンとオタカル2世はポジョニ近郊の川中島で会見を行い、2年間の休戦を約束した。しかし、国境上で起きた小競り合いが戦争に発展し、オタカル2世は自ら軍を率いてハンガリーに進攻した。ハンガリー軍は2つの小規模の戦闘ではボヘミア軍に敗れたが、1271年5月21日のラーバ河の戦いでボヘミア軍に決定的な勝利を収める。戦後の講和でボヘミアから占領された城塞が返還されるが、アンナが亡命の際に持ち出した家宝の請求権は破棄された。 1272年にケーセギ・ヘンリクは、王妃エルジェーベトの寵臣であるバーン・ヨアヒムと共謀して王子ラースローを誘拐し、ラースローを若王の地位に据えた。イシュトヴァーンはラースローを救出するために軍隊の招集を計画するが、そのさ中の1272年8月6日に急死した。
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