ハウス・ゲスツ〜Pファンク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 08:33 UTC 版)
「ブーツィー・コリンズ」の記事における「ハウス・ゲスツ〜Pファンク」の解説
ブーツィーはデトロイトに移住し、キャットフィッシュ、キャッシュ・ワディとともに、自身のバンド、ハウスゲスツ (The House Guests) を結成した。ハウス・ゲスツ名義ではJB直系ファンクの「ワット・ソー・ネバー・ザ・ダンス」がベスト盤に収録されている。ボーカルはペースメイカーズで一緒だったフィリップ・ウィンが担当し、またゲイリー・"マッドボーン"・クーパーも加わった。グラムロックのようなカラフルな出で立ちで激しいステージアクトを行うファンクバンドとして活動した。このバンドで活動中の1972年、スピナーズからバックバンドをしないかと誘いがあった。またファンカデリックを辞めたビリー・ネルソンの代わりのベーシストをさがしていたジョージ・クリントンも、後にパーレットのメンバーとなるマリア・フランクリンの紹介でブーツィーに声をかけた。結局ブーツィーはキャットフッシュとともにジョージ・クリントン率いるPファンクに参加した。歌手のフィリップ・ウィンはスピナーズに加わった。 Pファンクでは、ファンカデリック1972年発表のアルバム、アメリカ・イーツ・イッツ・ヤングで数曲ベースを弾いたが、Pファンクメンバーの薬物使用が頻繁だったためについていけず、また、ブーツィーにとってはファンカデリックの音楽はロックより過ぎたため、一時彼らと距離をおき、キャットフィッシュやキャッシュ・ワディらとともにコンプリート・ストレンジャーズ (Complete strangers) の名で地元でバンド活動をした。しかし、パーラメント1974年発表のアルバム、『アップ・フォー・ザ・ダウン・ストローク Up for the Down Stroke 』の録音には戻ってきて再びベースを弾いた。そして,親指と人差し指、および手のひら全体を使うスラップ奏法とオートワウ(エンヴェロープフィルター)を使い、その後の彼の代名詞ともなる新しいベースサウンドを生み出すことに成功した。パーラメント1975年発表のアルバム『チョコレート・シティ Chocolate City 』および『マザーシップ・コネクション Mothership Connection 』ではこの彼の新しいベース音を聞くことができる。さらに1975年には、JBズつながりでメイシオ・パーカー(サックス)、フレッド・ウェズリー(トロンボーン)らをPファンクに引き連れてきた。彼らはその後Pファンクに欠かせないホーン陣となった。 また、ジミ・ヘンドリックスのまねをして歌う「ブーツィーボイス」をファンカデリック1975年発表のアルバム、レッツ・テイク・イット・トゥー・ザ・ステージ収録の 『ビー・マイ・ビーチ Be My Beach 』で初披露した。 このブーツィーボイスとブーツィーのキャラクターを生かすため、1976年キャットフィッシュ、フレッド、メイシオ、マッドボーン・クーパー(ボーカル)らとブーツィーズ・ラバー・バンドを結成した。バンドは「ストレッチン・アウト・イン」「アイド・ラザー・ビー・ウィズ・ユー」を発表した。ブーツィーは、星形のサングラスをかけ、星形の真っ白いベース(スペース・ベース)を弾き、また「キャスパー」、「ブーツィラ」、「スター・モン」、「ザ・カウント」などのキャラクターを演じる、ユーモアあふれるファンキーなステージアクトを繰り広げ、一躍スターダムにのし上がった。
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