ハイパー・パック
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「プリムス・ヴァリアント」の記事における「ハイパー・パック」の解説
プリムスの製品企画担当重役のジャック・チャリパー(Jack Charipar )はヴァリアントのストックカー・レース仕様車開発の後押しをし、クライスラーの技術部門でレース用の「ハイパーパック」(Hyper-Pak)を開発する一方で、1959年12月1日にハイパーパック・ディーラー・チューニング・キットのオプションが限定した数だけ用意された。これは153 lb•ft (207.4 N•m) のトルクと10.5:1の圧縮比のエンジン、2本排気管の1本出しマフラー、手動チョーク弁と大型の15ガロン(56.76L)入り燃料タンクを装備していた。多くのスーパーストック仕様の「モパー」(Mopar)を担当していたクライスラーの技術者ディック・マックスウェル(Dick Maxwell )は「NASCARが1960年のデイトナ500と共同してコンパクトカーのレースカーを出走させると決定したときは全メーカーが参加したものだ。我々は148-hp 170-cu in のスラント6にラム吸気管付き4バレル単装キャブレターを装着したエンジンを搭載した7台のハイパーパック・ヴァリアントを製作した。」と当時のことを語った。レース仕様のハイパーパックは高負荷対応バルブスプリングと高耐久性ハイリフト・カムシャフトも備えていた。 NASCARの新しいコンパクトカー・クラスは1960年1月31日のデイトナ・インターナショナル・スピードウェイで始まった。最初の2つのレースは、コース内側の曲折コースを含む1.5マイル(2.4km) のきついバンク部を有する1周3.81マイル(6.13km) の3辺周回(tri-oval)のコースで行われた。レースは10周/38.1マイル(61.3km) であった。平均速度88.134mph(141.838km/h),でマーヴィン・パンチ(Marvin Panch)の運転するハイパーパックが1位に入り、全てのハイパーパックが上位7台を独占した。その日の2度目のレースでは全長2.5マイル(4.02km) の3辺周回コースのみを使用した20周/50マイル(80.4672km)で競われた。4周目で複数のレースカーが絡む事故が発生し、リチャード・ペティ(Richard Petty)の運転する車を含む先頭集団の4台のヴァリアントが脱落した。パンチはレースカーの不具合でスタートが遅れたため、先頭集団の事故が発生したときは後ろから遅い車を抜くのに忙しく、この事故には巻き込まれなかった。再スタート後にパンチは首位につけ、平均速度122.282mph(196.794km/h) でその位置を保った。出走したヴァリアントは1-2-3位を独占し、パンチは再び表彰台の真ん中に立った。マックスウェルは「そこはまさにプリムス通りといった感だった。我々は1位から7位までを独占してしまったのだから。我々の車はそれ程速かった。NASCARは2度とレースを行おうとはしなかった。」と、再び当時を振り返り語った。
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