ハイジャック事件後の釈放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 10:25 UTC 版)
「マスード・アズハル」の記事における「ハイジャック事件後の釈放」の解説
4年後の1999年12月、ネパールのカトマンズからニューデリーへ飛行中のインディアン航空814便(IC814)がハイジャックされ、各地を転々とした後に結局アフガニスタンカンダハールに着陸した。当時のカンダハールは、パキスタンのISIと共働していると見られるターリバーンに支配されていた。マスード・アズハルは人質の解放と交換に釈放するよう要求された民兵3人の内の一人であった。その後アズハルは「外交上の失敗」とアジット・ドヴァル(英語版)など多数から批判された決定でインド政府により釈放され、ことの重大性に値する立場の人は誰も(当時の)外務大臣から連絡を受けておらず、結果としてインド大使はアブダビ空港に入ることさえかなわなかった。IC814のハイジャック犯は、マスード・アズハルの兄弟イブラヒム・アトハルに指揮されていた。コト・バルワル刑務所からの釈放は、IPS将校シェシュ・パウル・ヴァイド(英語版)から助言された。弟のアブドゥル・ラウフ・アズハル(英語版)がこのハイジャック事件を計画した。一旦マスード・アズハルはハイジャック犯に引き渡され、パキスタン領域に逃げた。パキスタンはハイジャック犯は見付かれば逮捕されると言っていたが、国境線の長さとアフガニスタンからの多くの入国監視所は、任務を困難にした。パキスタン政府はアズハルが告発されるようなことがないので帰国が認められるとほのめかしてもいた。 釈放されてすぐにアズハルはカラチで約1万人に公開演説を行った。インドの支配からカシミール地域を解放すると誓いながら、「これはインドを破壊するまでムスリムが安息の内にあってはならないことを告げる義務であるためにここに来ている」と宣言した。 1999年、マスードが釈放されると、ハルカット=ウル=アンサルはアメリカ合衆国から禁止され、禁止されたテロ組織の一覧に加えられた。この動きはハルカット=ウル=アンサルにハルカット=ウル=ムジャヒディン(HuM)への改名をさせることになった。
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