ノートルダム大学
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「オースティン・カー」の記事における「ノートルダム大学」の解説
ノートルダム大学では当時のNCAAを代表する選手として活躍し、様々な記録を残した。3年間のプレイでカレッジバスケ史上歴代5位となる通算2,560得点(平均34.5得点)を記録し、最後の2シーズンではシーズン通算1,000得点以上を達成した史上2番目の選手(一人目はピート・マラビッチ)となった。また1試合60得点、1試合フィールドゴール成功数25本、試投数41本というNCAAトーナメント記録も保持している。1970年のトーナメントでは3試合で158得点をあげ、このトーナメントでのカーの平均得点は52.7得点となり、これもトーナメント記録となった。1971年のトーナメントでも平均41.7得点を記録しており(NCAAトーナメント史上平均36得点以上をあげたのはカーのみである)、カーのトーナメント通算平均41.3得点は歴代1位となった。トーナメント史上6回達成されている1試合50得点以上のうち、3回はカーによるものであり(残る3回はビル・ブラッドリー、オスカー・ロバートソン、デビッド・ロビンソンによる)、またトーナメントの1試合得点歴代トップ12の中に5回もランクインしている。
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ノートルダム大学
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「ジョー・モンタナ」の記事における「ノートルダム大学」の解説
彼が入学した前年の1973年、アラ・パルセギアンヘッドコーチに率いられたチームは全米チャンピオンとなっていた。1974年に入学した彼はチームの方針から練習生扱いとされ、フレッシュマンの試合に出場したのみであった。同年12月15日、パルセギアンが健康上の理由で辞任、ダン・ディバインが後任となった。1975年、彼は先発QBとしての地位は確立していなかったがノースウェスタン大学戦で31-7と勝利、ノースカロライナ大学戦で残り5分11秒、6-14でリードされていたが、21-14とチームを逆転勝利に導いた。空軍士官学校戦では10-30とリードされた第4Qから出場し、31-30と逆転勝利した。 1976年シーズン開幕前に肩を脱臼した彼はシーズンを棒に振った。1977年、当初第3QBだった彼は3試合目のパデュー大学戦で残り11分、14-24とリードされたところで途中出場、154ヤードを投げて1TDパスを決めるなど、31-24と逆転勝利した。翌週から先発QBに昇格した彼は残り9試合を全勝、コットンボウルでランキング1位のテキサス大学を38-10で破り、チームは11勝1敗で全米チャンピオンとなった。1978年のUSC戦では前半を6-24で折り返したが第4Qに25-24と逆転に成功、最後は相手FGが決まり25-27と敗れた。1979年1月1日にヒューストン大学との間で行われたコットンボウルで、彼は寒波のため低体温症で苦しんでいた。ハーフタイムには点滴を受けたり、ブイヨンのスープを飲んで体を温めた。第4Q残り7分37秒にフィールドに復帰した彼は12-34から23点を取り35-34とチームを逆転に導いた。
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