ネクラーソフの『同時代人』
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「同時代人」の記事における「ネクラーソフの『同時代人』」の解説
1846年、出版業界で地歩を固めつつあったネクラーソフが小説家パナーエフとともにプレトニョフから『同時代人』を買い取る。事業家・編集者としても優れていたネクラーソフのもとで、雑誌は発展していった。同年、ロシアに文芸批評を確立したベリンスキーを編集者として招き、翌年から雑誌は月刊となる。ベリンスキーは1848年に病死するが、同年には発行部数が3100部に達していた。さらに1850年代にかけてツルゲーネフ「猟人日記」「ルージン(英語版)」「貴族の巣(英語版)」、ゴンチャロフ「平凡物語(ロシア語版、英語版)」、グリゴローヴィチ(ロシア語版、英語版)「不幸者アントン(英語版)」、ゲルツェン「誰の罪(ロシア語版、英語版)」「ドクトル・クルーポフ(ロシア語版)」、そして当時無名の新人だったレフ・トルストイの「幼年時代(英語版)」「少年時代(英語版)」「青年時代(英語版)」など、文学史に残る作品を次々に掲載していき、ロシア文学の粋を結集した観があった。 クリミア戦争(1853年 - 1856年)でロシアは英仏に敗北し、それを機に農奴制に代表されるロシアの後進性を批判する声が国内で沸騰する。農民一揆も増加し、世情は騒然となる。『同時代人』掲載の「猟人日記」や「不幸者アントン」など農民を取り上げた小説も世論の形成に貢献した。新帝アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は、1861年の農奴制廃止を初めとして、様々な改革に着手したが、改革は不徹底だとして反政府運動は収まる気配を見せなかった。 『同時代人』には、1850年代半ばに若い世代の批評家チェルヌイシェフスキーとドブロリューボフが加わり、政治・経済・哲学・文学などの分野でナロードニキや革命運動を指導する論文を発表して多くの支持を集める。だが、雑階級出身で急進的な彼らと、ツルゲーネフら貴族出身の穏健で自由主義的な作家たちとの対立が深まっていった。 1860年、ツルゲーネフは、自作を批判したドブロリューボフの論文の掲載を差し止めるようネクラーソフに要請した。しかし、ドブロリューボフに立場の近いネクラーソフが拒否したので、ツルゲーネフは『同時代人』と絶縁し、それをきっかけにトルストイら他の貴族出身の作家たちも雑誌を去ることとなった。 その衝突にもかかわらず、1861年には発行部数が最高の7126部となる。だが、同年ドブロリューボフが病死する。
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