ネクラーソフの『同時代人』とは? わかりやすく解説

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ネクラーソフの『同時代人』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/16 09:34 UTC 版)

同時代人」の記事における「ネクラーソフの『同時代人』」の解説

1846年出版業界地歩を固めつつあったネクラーソフ小説家パナーエフとともにプレトニョフから『同時代人』を買い取る事業家編集者として優れていたネクラーソフのもとで、雑誌発展していった。同年ロシア文芸批評確立したベリンスキー編集者として招き翌年から雑誌月刊となる。ベリンスキー1848年病死するが、同年には発行部数が3100部に達していた。さらに1850年代にかけてツルゲーネフ猟人日記」「ルージン英語版)」「貴族の巣(英語版)」、ゴンチャロフ「平凡物語ロシア語版英語版)」、グリゴローヴィチロシア語版英語版)「不幸者アントン英語版)」、ゲルツェン「誰の罪(ロシア語版英語版)」「ドクトル・クルーポフ(ロシア語版)」、そして当時無名新人だったレフ・トルストイの「幼年時代英語版)」「少年時代英語版)」「青年時代英語版)」など、文学史に残る作品次々掲載していき、ロシア文学の粋を結集した観があった。 クリミア戦争1853年 - 1856年)でロシア英仏敗北し、それを機に農奴制代表されるロシア後進性を批判する声が国内沸騰する農民一揆増加し世情騒然となる。『同時代人掲載の「猟人日記」や「不幸者アントン」など農民取り上げた小説世論形成貢献した新帝アレクサンドル2世在位1855年 - 1881年)は、1861年農奴制廃止初めとして、様々な改革着手したが、改革不徹底だとして反政府運動は収まる気配見せなかった。 『同時代人』には、1850年代半ば若い世代批評家チェルヌイシェフスキードブロリューボフ加わり政治・経済哲学文学など分野ナロードニキ革命運動指導する論文発表して多く支持集める。だが、雑階級出身急進的な彼らと、ツルゲーネフ貴族出身穏健自由主義的な作家たちとの対立深まっていった。 1860年ツルゲーネフは、自作批判したドブロリューボフ論文掲載差し止めるようネクラーソフ要請した。しかし、ドブロリューボフ立場の近いネクラーソフ拒否したので、ツルゲーネフは『同時代人』と絶縁し、それをきっかけトルストイら他の貴族出身の作家たちも雑誌を去ることとなった。 その衝突にもかかわらず1861年には発行部数が最高の7126部となる。だが、同年ドブロリューボフ病死する

※この「ネクラーソフの『同時代人』」の解説は、「同時代人」の解説の一部です。
「ネクラーソフの『同時代人』」を含む「同時代人」の記事については、「同時代人」の概要を参照ください。

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