ニースとロンバルディの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 20:29 UTC 版)
「第五次イタリア戦争」の記事における「ニースとロンバルディの戦い」の解説
地中海でも戦いがおこっていた。1543年4月、スレイマン1世はバルバロス・ハイレッディン率いる艦隊をフランスに派遣した。バルバロスはダーダネルス海峡を100隻以上のガレー船で通過し、イタリア沿岸を略奪しながらフランスに向かい、7月にマルセイユに到着した。そこでフランス艦隊の指揮官であるアンギャン伯フランソワ(英語版)の歓迎を受けた。8月6日、フランス=オスマン連合艦隊はニースを出港、軍勢をヴィルフランシュ=シュル=メールまで運んだ。ニースはすぐに包囲(英語版)された。ニースは8月22日に落城したが、城塞は9月8日まで持ちこたえた。 このごろ、バルバロスはフランス海軍にとって負担となっていた。9月6日には「補給がなければ引き揚げる」と言い張った。その対応として、フランソワはトゥーロンの住民を世帯主を除いて追放して、同市をバルバロスに与えた。バルバロスはその後8ヵ月間に渡ってトゥーロンを3万の軍勢の基地として運用した。しかし、フランソワにとってオスマン軍が国内を闊歩していることは喜べることではなく、バルバロスのチュニス再征服にも後ろ向きだった。結局、1544年5月にオスマン艦隊はフランス大使アントワーヌ・エスカリン・デ・アイマール(英語版)と5隻のフランスガレー船に同伴して、ナポリ沿岸を略奪しながらイスタンブールへの帰途についた。 一方ピエモンテではブティエール領主グイゴ・ギフレイ(英語版)率いるフランス軍と第6代ペスカーラ侯爵アルフォンソ・ダヴァロス(英語版)率いる帝国軍が対峙し、戦況が膠着していた。ダヴァロスはカリニャーノの城塞を占拠して籠城し、フランスはそれを包囲して決戦を求めた。1543年から1544年にかけての冬、フランソワは増援を派遣してアンギャン伯フランソワ(英語版)を司令官に任命した。同じく増援を受けたダヴァロスは会戦に応じ、1544年4月11日にチェレゾーレの戦い(英語版)を戦った。この戦闘の死傷者数は当時の基準から見ても異常に高く、両軍の総数の28パーセントに上った。戦い自体はフランスが勝利を飾り、帝国軍は崩壊したが、戦略的にはさほど重要ではなかった。というのも、カール5世がピカルディに侵攻したためフランソワはピエモンテ駐留軍の大半を呼び戻し、アンギャン伯の元に残された軍勢ではミラノ侵攻には力不足であったためだった。1544年6月、セラヴァッレの戦い(英語版)でダヴァロスがフランスのイタリア傭兵隊を撃破したことでイタリアにおける戦いが終わった。
※この「ニースとロンバルディの戦い」の解説は、「第五次イタリア戦争」の解説の一部です。
「ニースとロンバルディの戦い」を含む「第五次イタリア戦争」の記事については、「第五次イタリア戦争」の概要を参照ください。
- ニースとロンバルディの戦いのページへのリンク