トレポフ狙撃事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:19 UTC 版)
「ヴェーラ・ザスーリチ」の記事における「トレポフ狙撃事件」の解説
1876年、ペテルブルクに出てナロードニキ組織「土地と自由」に参加する。1877年7月、76年12月のデモに参加し逮捕された大学生で政治犯のアレクセイ・ボゴリューボフが、監獄を視察したペテルブルク特別市長官フョードル・トレポフ将軍に対して脱帽を拒否、報復として鞭刑とされたことに囚人が怒り暴動が発生したという新聞記事を読む。この事件は革命派、過激派のみならず、多くのインテリゲンツィアも憤激させた。ザスーリチもその一人であった。1878年1月24日、ザスーリチはコズローヴァの偽名を名乗り請願のためとトレポフ将軍に面会し、将軍を狙撃した。ザスーリチの放った弾丸のうち、二発目がトレポフの左脇腹に命中し負傷させた。ザスーリチはその場で逮捕され、裁判にかけられるが、事件は世界的に知られることとなり、普通法による陪審裁判所で取り扱われ無罪となった。無罪判決が下った瞬間、法廷内は歓喜の声が充満し、裁判所の外で判決を見守っていた群衆は、ザスーリチを歓呼をもって迎えた。さらに各地で専制に対する勝利のデモが勃発した。ザスーリチは、再逮捕を恐れ、他の多くの革命家がしたようにスイスに亡命した。 「土地と自由」派が、革命の手段をめぐりテロによる要人暗殺を肯定する「人民の意志」派と、テロの否定と農村での宣撫を重視するゲオルギー・プレハーノフ率いる「黒い割替」派に分裂する。1879年「黒い割替」派に参加し、1881年の皇帝アレクサンドル2世の暗殺につながるテロリズムには反対した。
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