トゥルノジョヨの乱と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/18 07:38 UTC 版)
「アマンクラト1世」の記事における「トゥルノジョヨの乱と死」の解説
しかし、アマンクラト1世の専制的な統治に対して貴族の不満は高まり、1670年代後半になるとジャワ島東部を端緒として各地で反乱が勃発した。1674年にマドゥラ人の王族トゥルノジョヨ(インドネシア語版)がトゥルノジョヨの乱(英語版)を起こし、彼は1677年6月28日にマカッサルの傭兵を率いてプレレドを占拠した。この反乱はラス・ラマトが支援していたと言われているが、反対勢力を取り込んだトゥルノジョヨはラス・ラマトの指示を受け付けなかった。アマンクラト1世は孫のパンゲラン・プゲル(英語版)をプレレドに残し、ラス・ラマトと共に西部に逃亡した。トゥルノジョヨはプゲルを人質にしてプレレドを破壊した後、彼の勢力基盤であるジャワ東部のクディリに戻った。『ババッド・タナハ・ジャーウィー』は「プレレドの陥落がマタラム王家の凋落を意味した」と記している。 逃亡先でアマンクラト1世は病気にかかり、さらに「ラス・ラマトが有毒なココナッツ水を与えたため病状が悪化した」と『ババッド・タナハ・ジャーウィー』は記している。7月13日に病死し、遺体はテガルに埋葬された。王位を継いだラス・ラマトは「アマンクラト2世」を名乗り、オランダ東インド会社の支援を得て1679年に反乱を鎮圧した。
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