デラニー&ボニー 1968-70
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「ボビー・ウィットロック」の記事における「デラニー&ボニー 1968-70」の解説
詳細は「デラニー&ボニー」を参照 ウィットロックは1969年のデラニー&ボニーのアルバム『ホーム』と『オリジナル・デラニー&ボニー』で、ボーカルとキーボードでレコーディングに参加した。彼らのツアーバンド、デラニー&ボニー&フレンズには、彼が1970年代前半まで共に働くこととなるベーシストのカール・レイドル、ドラマーのジム・ケルトナー、ジム・ゴードン、ホーンセクションのボビー・キーズ、ジム・プライスが含まれていた。その他のメンバーとしてエリック・クラプトンが在籍していたが、彼は1969年7月から8月にかけて行われたアメリカツアーの途中にリードギタリストとして加入していた。このツアーの時に、デラニー&ボニーはクラプトンとスティーヴ・ウィンウッドの短命に終わったスーパーグループ、ブラインド・フェイスのサポートを行った。クラプトンは後にウィットロックを「僕がこれまで見た中で疑いなく最もエネルギッシュなサイドマン」と描写している。デラニー&ボニーの他のすべてのメンバーと共に、ウィットロックは1969年11月にイギリスに飛び、クラプトンが費用を負担し、大々的に宣伝されたヨーロッパツアーの準備を行った。 ウィットロックは自叙伝で、ロンドンへ彼らが到着したことがバンドの中の力学を変えたと述べている。ブラムレットは自身を今や「大スター」であり、新たに発見された成功に単独で責任を負うものと考えていた。ロンドンでウィットロックはアメリカのソウルシンガー、ドリス・トロイのソロアルバムのためのセッションに参加した。アルバム『ドリス・トロイ』(1970)はジョージ・ハリスンが共同プロデューサーとなり、アップル・レコードからリリースされた。ハリスンはイギリスのマスコミでデラニー&ボニーを擁護し、クラプトンのツアーへの招待を受け入れた。そしてハリスンを通して、ウィットロックとバンドは1969年12月15日にロンドンのライシーアム劇場で行われた、ジョン・レノンの「クリスマスのための平和」コンサートに出演した。 1970年の初旬にデラニー&ボニー&フレンズはエリック・クラプトンのソロアルバム『エリック・クラプトン・ソロ』のバックを務め、クラプトンと共にアメリカツアーを行った。ブラムレットとメンバー間で報酬に関する意見の不一致が生じ、一部のメンバーはバンドを離れ、レオン・ラッセルはジョー・コッカーとマッド・ドッグス&イングリッシュメンのツアーに参加した。ウィットロックは4月までデラニー&ボニーとの活動を続け、『デラニーよりボニーへ』のセッションに参加した。クロッパーのアドバイスを受けて彼はイギリスに戻り、クラプトンのサリーの自宅、ハートウッド・エッジに滞在した。
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