デュッセルドルフでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 04:50 UTC 版)
「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事における「デュッセルドルフでの活動」の解説
1832年にツェルターが死去すると、メンデルスゾーンはベルリン・ジングアカデミーを引き継ぐことを希望した。しかし、1833年1月に行われた投票でカール・フリードリヒ・ルンゲンハーゲンに敗れた。メンデルスゾーンがまだ若かったこと、そして彼が起こしうる改革が懸念材料になったものと考えられる。また、彼のユダヤの出自もいくらかは関係していることが疑われる。この落選の後の数年間にわたり、メンデルスゾーンはイギリスとデュッセルドルフで仕事を行った。デュッセルドルフでは1833年に音楽監督に就任しており、これは彼が音楽家として給料を得た初めての職だった。 その年の春、メンデルスゾーンはデュッセルドルフのライン音楽祭を指揮した。彼はロンドンにおいて自ら発見した自筆譜を元にヘンデルのオラトリオ「エジプトのイスラエル人」の準備を整え、音楽祭の開始にこの曲をおいた。これをきっかけにドイツでヘンデルの再評価が進んだが、これは「マタイ受難曲」蘇演から始まったバッハ再興と類似したものといえる。メンデルスゾーンは劇作家カール・インマーマンと共にこの地方の劇場の水準向上に努め、1833年の暮れにはインマーマン演出によるモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」で初めてオペラの指揮台に立つが、チケット代に関して聴衆の反感を買ってしまい気分を害する結果となった。このデュッセルドルフにおける日々の雑用は彼に不満を募らせていき、1834年には職を辞した。ミュンヘンとライプツィヒから音楽上の要職の提示を受けた彼は、1835年にライプツィヒ行きを決定する。
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