ディナでの滞在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 17:21 UTC 版)
「グル・ゴービンド・シング」の記事における「ディナでの滞在」の解説
ラーイコートはムガル帝国軍に対し抵抗を組織するには適した場所ではないと悟り、グル・ゴービンド・シングはラーイコートを離れ、Mahant Kirpal Das (バガーニーの戦いにおいて早くから参加していた)とともにヘーハルで2日を費やした。彼はその後彼の仲間であるRai Kallaが滞在するLamma Jatpuraへと進んだ。グルは3人のシク教徒とともに南方へと進んだ。道すがら、彼はManuke、Mehdiana、Chakkar、Takhtupura、Madheの各村を通過して最終的にマールワーにあるディナ (現在のモガ地区) に到着した。人々はグルがチャムカウルで死亡したと聞いていたが、彼がディナに到着した際に真実が広まった。彼はShamira、Lakhmira、Takht Mal、Rai Jodhの3人の孫、グル・ハルゴービンドの信者により、ディナで暖かく迎えられた。 ディナに滞在している間、グルはアウラングゼーブから和解の書を受け取り、アウラングゼーブは状況について議論するためデカン高原に来るよう求めた。グルは彼の父を殺していたアウラングゼーブに対し用心深かった。グルは君主の要求を拒み、「ザファルナーマー」(勝利の書) と題するペルシア語で書かれた有名な文面を執筆した。この文面において、グルはアウラングゼーブに彼の悪行を思い出させ、ムガル帝国軍の裏切り行為を非難した。彼はダヤー・シング、ダーラム・シングと護衛からなるシク教徒の集団を派遣し、アフマドナガルに滞在していたアウラングゼーブに対し手紙を送った。 グル・ゴービンド・シングはタクト・シュリー・ダムダマー・サーヒブへ移動し、パンジャーブ地方のマージュハ地域出身の40人のシク教徒集団がマーター・バーグ・カウルとともに同行してrohiと呼ばれる場所に到着した。Mai Bhagoとして知られているマーター・バーグ・カウルはグルを訪問した。彼らはグルの4人の息子と母の死に対する弔意を示し、グルとムガル帝国軍の間で和解するよう要請した。グルは彼らに対し、グル・アルジャンの殉教からアナントプルの包囲戦まで、ムガル帝国軍の残虐さを説いた。彼は彼らの態度を叱責し、そのような言動に対し恥じるよう迫った。Jatha (集団) のリーダーの一人であったBhag Singh Jabhaliaは、グルにより忠誠を誓うことは自分たちの意図する所ではないと言った。グルは、自身が彼らを呼んだのではないのであるから、彼らは放棄声明書に署名すべきであると言い、Bhag Singh Jabhaliaとその他の40人が署名した。残った35人は署名しなかった。この時、グルはワズィル・カーン率いるムガル帝国軍が進軍しているとの知らせを受けた。彼は支持者とともに、丘の側に場所と取るよう移動したが、この場所の傍には周辺地域唯一の水源があった。 この場所で、マーター・バーグ・カウルは重大な場面においてグル・ゴービンド・シングを見捨てたことに対して40人のシク教徒を非難した。この詰問により、40人のシク教徒は近づいてきたワズィル・カーン率いるムガル帝国軍と対面することとなった。1705年12月29日に起こった戦闘においては、マージュハから来た40人のシク教徒とマーター・バーグ・カウルの他、グル・ゴービンド・シングと彼に付き従っている人々もまた参加した。日没までに戦士のほとんどは殺されるもしくは重傷を負っていた。40人の内たった3人のシク教徒 (Rai Singh、Sunder singh、Mahan singh) のみが到着し、Bhag Kaurは重傷により臥せっている状態だった。彼らの願いに応え、グル・ゴービンド・シングは彼らをムクタ (解放)として祝福した。彼らの名誉を讃え、場所の名前も「Ishar sar」もしくは「Khidrana」からシュリー・ムクトサル・サーヒブ(英語版)に変更した。
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