テルマエの建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 22:32 UTC 版)
詳細は「テルミニ・イメレーゼ」を参照 ヒメラ近郊に新しく建設された街はテルマエもしくはテルマと名づけられたが、明確にするためにテルマエ・ヒメレンシス(ヒメラの温泉)と呼ばれた。テルマエの名はそこの温泉にちなむが、この温泉の最初の発見はヘラクレスの放浪伝説と関連付けられている。テルマエはその後かなりの大きさの都市に成長したが、短期間の例外を除いてカルタゴに従属していた。第一次ポエニ戦争においても、その名前は繰り返し出てくる。紀元前260年、ローマ軍がその近郊に野営していたが、カルタゴ軍の攻撃を受け大損害を受けたことが記録されている。戦争終結前にテルマエは包囲されローマ軍に占領された。キケロによるとローマはこれを再建してテルミターニと呼び、共和政ローマに忠誠な都市としてローマの法律を適用した。第一次ポエニ戦争中にはテルマエはローマに敵対していたために、ローマの都市になったのはその後のことであるが、正確な時期は分からない。キケロの時代(紀元前1世紀半ば)には、テルマエはかなりの貿易が行われている繁栄した都市となっていたが、キケロは「最大の城砦都市(オッピドゥム)ではない」と述べている。アウグストゥス帝時代にはローマ帝国のコロニア(植民市)になっていたようで、「Coloniae Augustae Himeraeorum Thermitanorum(アウグスタ・ヒメラエオラム・テルミタノラム植民市)」と刻まれた碑文が発見されており、大プリニウスが「テルマエ・コロニア」と記しているのは(南海岸のテルマエ・セリヌンティアムと混乱が見られるが)この街を指していることはほとんど疑いがない。その後のテルマエに関する記述はほとんどないが、プトレマイオスの著作やアントニウスの旅程表のポイティンガー図に名前が見えることから、ローマ帝国時代を通じて存続していたことは明らかであり、現在のテルミニ・イメレーゼに古代の遺跡や名前が残っていることから、人が住まなくなったことは無いと思われる。古代テルマエの壮大さと市民が芸術を愛していたことは、キケロの著作で「in primis Siciliae(シキリアで第一)」とされていることで裏付けられている;キケロの時代でもスキピオがカルタゴ征服の再に取り戻した彫像がテルミターニに保存されていたが、それは過去の遺産としてだけではなく芸術作品としても貴重なものであった。ヒメラから出土する多数のコインは、その古代の都市の富を証明している。
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