テストの限界と批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 22:46 UTC 版)
「ベクデル・テスト」の記事における「テストの限界と批判」の解説
ベクデル・テストはあるフィクション作品においてある程度女性が存在しているということをはかるものにすぎない。作品がテストをパスするが性差別的内容を含んでいるということもあり得るし、傑出した女性キャラクターが出てくる作品であってもテストに合格しないことがあり得る。ウンベルト・エーコ原作で、中世の男子修道院が舞台である映画『薔薇の名前』などのように、女性が含まれないような場所に舞台が設定されているといったジェンダーバイアスとはあまり関係のない理由でテストに合格しない場合もある。こうした理由のため『デイリー・テレグラフ』の映画批評家ロビー・コリンは、映画がベクデル・テストに合格するか否かよりも映画において丁寧に描写された女性キャラクターがいないという根本的な問題が議論の主題になるべきだと示唆した。 FiveThirtyEightの記者ウォルト・ヒッキーは、テストはある映画がジェンダー平等のモデルであるのかをはかっているのではなく、これに合格することで台本の質や重要性、女性の役割の深みが担保されるわけではないと留意しつつも、「映画について今のところ使える最善のジェンダー平等テストであり、おそらくもっと重要なことには、データがある唯一のテストである」と書いた。 作品がテストをパスするか否かについての定量分析の試みにおいては、少なくとも1名の研究者、フェイス・ローレンスが、テストがどの程度厳しく適用されるかに結果が左右されると書いている。このテストの応用から浮かび上がっている疑問のひとつとして、他の話題もカバーしている会話の中のある点で男性に言及がある場合、会話全体が不適とされるのかというものがある。もしそうでないとしても、どうやって会話の始まりと終わりを定義するかという疑問は残る。 ニーナ・パワーは、このテストにより、フィクションは(何であろうとクリエイター自身のテーマを追求するよりも)女性を表象し、かつ女性表象において「リアリスティック」である責任があるのかという疑問が提示されたと述べた。パワーは実生活がどの程度頻繁にベクデル・テストをパスするか、フィクションの影響というのはどういうものであり得るのかということについても論じた。
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