チンギス・カンの「千人隊長」一覧
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「ミンガン」の記事における「チンギス・カンの「千人隊長」一覧」の解説
チンギス・カン自らが任命した最初の千人隊長はモンゴル帝国の根幹を為す貴族層となり、大元ウルスやフラグ・ウルスでは高官の多くがチンギス・カン時代の千人隊長の子孫を称した。そのため、モンゴル時代にはチンギス・カン時代の千人隊長に言及する史料が多く編纂されたが、その中でも『モンゴル秘史』と『集史』は「チンギス・カンの千人隊長」一覧を記載しており、千人隊長を研究する上での根本史料となっている。 しかし、『モンゴル秘史』と『集史』の記述を比較すると前者が88名の千人隊長と95の千人隊について述べるのに対して後者は名の千人隊長と129の千人隊について述べる、片方の史料にしか名前の見えない千人隊長が多数見受けられるなど両者の記述には食い違う点が多い。 このような差異が生じた理由として、『モンゴル秘史』の記す千人隊長はモンゴル帝国が建国された時点(1206年)の状態を記したもので、『集史』の記す千人隊長はチンギス・カンの死去した時点(1227年)の状態を記したものであるということが挙げられる。このため、1206年時点ではケシクの隊長であったが後に千人隊長に昇進した者(アルカイ・カサルなど)、1206年以後にモンゴル帝国に帰順して千人隊長に任ぜられた者(オイラトのクトカ・ベキなど)については『モンゴル秘史』の方には記載されていない。 また、『集史』では「3千人を率いるジャライル部のムカリ国王」などのように複数の千人隊を所有する千人隊長が散見される。これは一人の人間が複数の千人隊を統べたということではなく、一人の上級千人隊長が他の下級千人隊長の任命権を有するということである。そのため、『集史』では下級千人隊長を省力して上級千人隊長のみを記しているのであり、『モンゴル秘史』にあって『集史』にない人名の多くは省略された下級千人隊長であると推測されている。例えば、『集史』はウルウト部の千人隊長について「4千人を率いる」ケフテイのみを挙げているが、『モンゴル秘史』ではケフテイの父ジュルチェデイと弟ブジルも千人隊長の一人として記されている。本来はジュルチェデイ、ケフテイ、ブジル全員がウルウト部の千人隊長であったが、『集史』では1227年時点で上級千人隊長であったケフテイのみをウルウト部の千人隊長として記したのであろう。 同様に、ムカリ(3位)の親族であるトゲ(10位)は「ムカリの3千人隊」の下級千人隊長であり、アルチ・キュレゲン(86位)の親族であるオラル・キュレゲン(79位)とチグゥ・キュレゲン(85位)は「アルチ・キュレゲンの5千人隊」の下級千人隊長であると推測されている。
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