タイコンデロガ砦の戦い
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「ベネディクト・アーノルド」の記事における「タイコンデロガ砦の戦い」の解説
詳細は「タイコンデロガ砦」を参照 1775年5月10日、早暁の攻撃で実際の戦闘を行うこともなくタイコンデロガ砦が落ちた。植民地の兵士はイギリス軍の守備兵の方が数が多かったことに驚かされた。続いて近くのクラウンポイント砦とジョージ砦を占領したが、この2つは守備隊の数が遥かに少なかった。これらの占領に続いてアレンの兵士達が砦の酒蔵に押し入り、幾らか手に負えない状態になった。砦の軍需物資をボストンに運ぶ可能性を考えて在庫を調べたかったアーノルドは激怒したが、彼らを止めるには力不足だった。アーノルドの部下の大尉達が徴兵した兵士達が到着し、捕獲してきたスクーナーがあったので、アーノルドはモントリオールから遠くないセントジョンズ砦に大胆な襲撃を実行した。このときさらに多くの捕虜を取り、またシャンプレーン湖では最大の軍艦を捕獲したので、アメリカ軍による湖の軍事支配を確立できた。 アーノルドはタイコンデロガ砦に戻ると、アレンが自分の部隊を撤退させていたので、そこの指揮権を揮い始めた。しかし、コネチカットの兵士1,000名を連れたベンジャミン・ハイマン大佐が6月に到着し、アーノルドを部下としてハイマンが指揮を執ることを伝えた。アーノルドは革命のために行った彼の行動が認められていないと感じて激怒し、その任務を辞退してコネチカットの故郷に向かった。アーノルドが怒って任務を放棄するという反応をしたことは、その軍事的功績にも拘らず大陸会議の代議員の中に彼を嫌う者を生じさせた。大陸会議のアーノルドに関する意見は、アーノルドが敵だと見なす2人の男が回覧した報告書でさらに悪い方に流れた。アレンの副官であるジョン・ブラウンとジェイムズ・イーストンの2人がマサチューセッツとフィラデルフィアに旅し、その行動について報告した。アーノルドの挙動に関する彼らの描写は正確だったが、アーノルドは彼らが恐らくアーノルドのことを中傷したと信じるようになり、両人共にその後の紛争の種になった。 アーノルドがオールバニに到着すると、彼の妻が死んだことを報せる手紙を受け取った。大陸軍北方方面軍の新しい指揮官に就任していたフィリップ・スカイラー将軍との会談後にアーノルドはニューヘイブンに戻り、子供達に会って(この時は妹ンのハンナが世話していた)、商売に戻った。このニューヘイブンに居る間に最初の通風に襲われ、生涯それに苦しむことになった。
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