セントローレンス川とローワー・カナダ
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「米英戦争のカナダ戦線」の記事における「セントローレンス川とローワー・カナダ」の解説
イギリス軍にとって、セントローレンス川沿いの一帯が潜在的に脆弱な地域であり、アッパー・カナダと合衆国の間の前線になった。戦争の初期、川を越えての不法な交易が多く続けられたが、1812年から1813年にかけての冬、アメリカ軍は川のアメリカ側岸にあるオグデンスバーグから一連の襲撃を行い、イギリス軍の川を遡上する補給部隊の邪魔をした。 1813年2月21日、ジョージ・プレボスト総督はプレスコットからアッパー・カナダのための増援部隊を連れて川の向こう岸に上陸した。プレボストが翌日立ち去るときに、増援部隊とそこの民兵が攻撃を仕掛け、オグデンスバーグの戦いでアメリカ軍を撤退させた。戦争の残り期間、オグデンスバーグにはアメリカ守備兵がおらず、オグデンスバーグの多くの住人が戻ってプレスコットとの交易を行った。このイギリス軍の勝利によって、セントローレンス川上流にはアメリカ正規兵軍がいなくなり、イギリスはモントリオールとの連絡を確保できた。 1813年遅く、アメリカ軍は多くの議論の後に、モントリオールを2方面から襲撃しようとした。最終的な作戦は、ウェイド・ハンプトン少将がシャンプレイン湖から北へ行軍し、オンタリオ湖のサケット港から船で下ったジェイムズ・ウィルキンソン指揮する部隊と合流するというものだった。 ハンプトンは悪路に阻まれ、補給物資の問題もあり、また彼の作戦を支持することに条件を付けたウィルキンソンをひどく嫌っていたために遅延した。10月25日、ハンプトンの4,000名強の部隊が、500名足らずのフランス系カナダ人志願兵とモホーク族からなるシャルル・ド・サラベリーの部隊にシャトーゲーの戦いで打ち破られた。 ウィルキンソンの8,000名の部隊は10月17日に進発したが、悪天候のためにやはり遅れた。ウィルキンソンはハンプトン部隊が遅れていることを知り、イギリス軍のウィリアム・マルカスター大尉とジョセフ・ウォントン・モリソン中佐の部隊が自部隊を追っているという情報を得たので、11月10日、モントリオールからは150km上流のモリスバーグ近くで上陸した。翌11月11日、ウィルキンソンの後衛2,500名がモリソンの800名の部隊とのクライスラー農園の戦いで反撃され大きな損失を負った。ウィルキンソンは、ハンプトンが前進を諦めているのを知り、合衆国領に戻り、冬季宿営地に落ち着いた。ウィルキンソンは1814年のラコール・ミルズの戦いでイギリス軍基地の攻撃に失敗し、辞職した。
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