セントローレンス川とローワー・カナダとは? わかりやすく解説

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セントローレンス川とローワー・カナダ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 06:52 UTC 版)

米英戦争のカナダ戦線」の記事における「セントローレンス川とローワー・カナダ」の解説

イギリス軍にとって、セントローレンス川沿いの一帯潜在的に脆弱な地域であり、アッパー・カナダ合衆国の間の前線になった戦争初期、川を越えて不法な交易多く続けられたが、1812年から1813年にかけての冬、アメリカ軍は川のアメリカ側岸にあるオグデンスバーグから一連の襲撃行いイギリス軍の川を遡上する補給部隊の邪魔をした。 1813年2月21日ジョージ・プレボスト総督プレスコットからアッパー・カナダのための増援部隊連れて川の向こう岸上陸した。プレボストが翌日立ち去るときに、増援部隊とそこの民兵攻撃仕掛け、オグデンスバーグの戦いでアメリカ軍撤退させた。戦争残り期間、オグデンスバーグにはアメリカ守備兵がおらず、オグデンスバーグの多く住人戻ってプレスコットとの交易行った。このイギリス軍勝利によって、セントローレンス川上流にはアメリカ正規兵軍がいなくなりイギリスモントリオールとの連絡確保できた。 1813年遅くアメリカ軍多く議論の後に、モントリオールを2方面から襲撃しようとした。最終的な作戦は、ウェイド・ハンプトン少将シャンプレイン湖から北へ行軍しオンタリオ湖のサケット港から船で下ったジェイムズ・ウィルキンソン指揮する部隊合流するというものだったハンプトン悪路阻まれ補給物資問題もあり、また彼の作戦支持することに条件付けたウィルキンソンをひどく嫌っていたために遅延した10月25日ハンプトンの4,000名強の部隊が、500名足らずのフランス系カナダ人志願兵モホーク族からなるシャルル・ド・サラベリーの部隊シャトーゲーの戦い打ち破られた。 ウィルキンソンの8,000名の部隊10月17日進発したが、悪天候のためにやはり遅れたウィルキンソンハンプトン部隊遅れていることを知りイギリス軍のウィリアム・マルカスター大尉とジョセフ・ウォントン・モリソン中佐部隊自部隊を追っているという情報得たので、11月10日モントリオールからは150km上流モリスバーグ近く上陸した。翌11月11日ウィルキンソン後衛2,500名がモリソン800名の部隊とのクライスラー農園の戦い反撃され大きな損失負ったウィルキンソンは、ハンプトン前進諦めているのを知り合衆国領に戻り冬季宿営地落ち着いたウィルキンソン1814年のラコール・ミルズの戦いでイギリス軍基地攻撃失敗し辞職した

※この「セントローレンス川とローワー・カナダ」の解説は、「米英戦争のカナダ戦線」の解説の一部です。
「セントローレンス川とローワー・カナダ」を含む「米英戦争のカナダ戦線」の記事については、「米英戦争のカナダ戦線」の概要を参照ください。

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