セネガルへの航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 13:32 UTC 版)
「メデューズ (帆走フリゲート)」の記事における「セネガルへの航海」の解説
1816年6月17日、メデューズのド・ショマレー指揮下の輸送船団はロシュフォールを出発した。船団は輸送船「ロワール(Loire)」、ブリッグ「アルギュス(Argus)」、コルベット「エコー(Écho)」で、セネガルのサンルイ港の返還をイギリスから受けることが目的だった。武装を減らしたメデューズにはフランスのセネガル総督に任命されたジュリアン=デジレ・シュマルツ大佐とその妻レーヌ・シュマルツを含む乗客が乗っており、乗船者数は乗組員160名を加えて400名に達した。メデューズは6月27日にマデイラに到着した。 シュマルツは最短コースを取って可能な限り早くサンルイに着くことを望んだが、それは船団が岸に危険なほど近くを進むことを意味した。そこには多くの砂州と岩礁があり、経験豊かな船乗りなら海岸から離れて航海する場所だった。メデューズは船団で最も速く、また艦長は与えられていた命令を無視したので、すぐに僚艦のロワール、アルギュスとの接触を失ってしまった。エコーはメデューズに追随し、これを誘導しようとしたが失敗した。エコーはその後大事を取って外洋に向かった。 ショマレーは乗客の1人であるリシュフォールを操艦に参加させることを決めた。リシュフォールは哲学者でありカーボベルデの慈善協会のメンバーであって、船を導く資格は持っていなかった。メデューズはアフリカの海岸に近づき、危険なコースをたどっていた。リシュフォールは水平線上の大きな雲堤をアフリカ沿岸ヌアディブ半島のカボブランコ岬と取り違え、モーリタニア沖のアルガン岩礁に接近する危険を過小評価した。 1816年7月2日、メデューズはどんどん浅くなってゆく海域に入り込んだ。ショマレーもリシュフォールも白い砕け波や水中の泥などの浅瀬の兆候を無視した。やむなくモード海尉は、命令を待つことなく自ら艦首の先に出て水深を計り始め、わずか18尋であることを確認すると艦長に警告した。やっと危険を理解したショマレーは帆を張るように命令を下したが、すでに手遅れであった。メデューズは海岸から50 km沖で座礁した。事故が起きたのは春の満潮のときであり、そのことが艦の浮揚を困難にした。1門3トンもある砲14門の投棄を艦長が拒否したため、船の離礁は不可能となった。
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