ズゴットの時代からゲオニームの時代におけるヘーレム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/10 18:53 UTC 版)
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ズゴットの時代(紀元前150年 – 10年)の当初は サンヘドリンの議長や議員の権限でヘーレムを強制執行することはなかった。実際にヘーレム(主にニドゥィ)の運用が始まったのは、祭司階級によるトーラー(成文律法)に立脚した権威の衰退が著しい第2神殿時代の後期から末期、および第2神殿崩壊以降のことである(相対的に口伝律法の権威が増したことを意味している)。この頃になると、アクビア・ベン・マハラルエルやエリエゼル・ベン・フルカノスといった著名なラビがヘーレム(ニドゥィ)の処罰を受けている。その一方、2世紀後半のサンヘドリンの議長でミシュナーの編纂者でもあったイェフダー・ハ・ナシーは、賢者らの下したヘーレムの裁定を自らの権限でのみ覆すことができるなど強大な権力を誇っており、その影響はバビロニアにも及んでいた。 アモライームの時代(3世紀 – 5世紀末)になると、ヘーレムおよびニドゥィの運用はより単純化し、裁判所の決定に従わない者や口伝律法の権威に背く者に対しても懲罰として科された。サボライームの時代(5世紀末 – 6世紀中庸)からゲオニームの時代(6世紀末あるいは7世紀末 – 11世紀)になるとこの傾向はさらに著しくなり、ヘーレムは徴税のための法的手段となっていた。税金未納者の財産の没収を目的としたヘーレムはイスラエルの地でのみ行われていたのだが、ゲオニームのラビは運用を改訂し、負債を支払わない者に対しても懲罰としてヘーレムを科した。また、死刑囚や偽証罪に問われている者もその対象となり、ヘーレムやニドゥィを科された者が死んでもイスラエルの地での埋葬は禁じられ、その子弟も割礼や婚礼を禁じられるなどの制裁が加えられた。
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