ストーンウォール・ジャクソンと共に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 15:11 UTC 版)
「リチャード・ユーエル」の記事における「ストーンウォール・ジャクソンと共に」の解説
1862年1月24日、ユーエルは少将に昇進し、バレー方面作戦ではストーンウォール・ジャクソンの下で仕え始めた。2人の将軍は協力してことを運び、2人共に非現実的な挙動で注目されたが、2人の間には多くの様式的な違いがあった。ジャクソンは厳格で敬虔なところがあったが、ユーエルは機知に富み、極端に冒涜的だった。戦場ではジャクソンは柔軟性があり、直感に従って動いたが、ユーエルは勇敢で実効を挙げたものの、効果を有効にさせるために正確な指示を求めた。ユーエルは、ジャクソンがその作戦計画について部下に知らせない傾向があることに当初不満だったが、最終的にはジャクソンのやり方に合わせた。 バレー方面作戦の間ジャクソンの小さな軍隊で、ユーエルは見事にその1個師団を指揮し、北軍ジョン・C・フレモント、ナサニエル・バンクスおよびジェイムズ・シールズ各少将が指揮する大部隊に対して、個人的にもかなりの数の戦闘で勝利した。続いてジャクソン軍はリッチモンドに呼び戻されて、ジョージ・マクレラン少将のポトマック軍が遂行していた半島方面作戦に対してリッチモンド市を守るために、ロバート・E・リーの軍に加わった。ゲインズミルの戦いやマルバーンヒルの戦いでは目だった戦い方をした。七日間の戦いでリー軍が北軍を追い払った後で、北軍ジョン・ポープ少将のバージニア軍が北からの攻撃をする怖れがあったので、ジャクソンはその妨害に派遣された。ユーエルは8月9日にシーダー山の戦いで再びバンクス軍を破り、以前のマナサスの戦場に戻って、第二次ブルランの戦いにも良く戦ったが、グラブトンで負傷し、その左足は膝から下を切断された。 この傷から快復する間に、ナッシュビル地区で富裕な未亡人であった従姉妹のリジンカ・キャンベル・ブラウンから看護された。ユーエルは10代のころからリジンカに惹かれており、1861年やバレー方面作戦の間もそのロマンスを咲かせていたが、この時の密接な世話によって、1863年5月26日のリッチモンドにおける結婚に繋がった。 傷の治療に長く掛かった後で、ユーエルはリーの北バージニア軍に復帰し、チャンセラーズヴィルの戦いに加わった。ジャクソンが1863年5月3日に瀕死の重傷を負ったとき、ジャクソンはユーエルがその軍団指揮を継ぐことを提案した。リーは一時的に騎兵隊指揮官のJ・E・B・スチュアートにその後任を託したが、5月23日、ユーエルは中将に昇進し、第2軍団指揮を任された(この時、やはりジャクソン軍の師団指揮官だったA・P・ヒル中将に新しい第3軍団を任せるためにジャクソン軍から一部引き抜いたので、軍団の大きさはやや小さくなった)。
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