ストーンウォール・ジャクソンの下での従軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 03:30 UTC 版)
「ジュバル・アーリー」の記事における「ストーンウォール・ジャクソンの下での従軍」の解説
アーリーはバージニア州ロッキー・マウントで療養し、2ヵ月後にストーンウォール・ジャクソン少将の下に復帰してマルバーンヒルの戦いに間に合った。そこでは生涯続いていた戦場での操軍能力の欠如を現してしまい、その旅団は林の中で道に迷った。大した戦闘もないままに33名の損失を蒙ることになった。北バージニア方面作戦の時には、シーダー山の戦いで戦果をあげ、第二次ブルランの戦いでは、ストーニーリッジにいたジャクソン軍の左翼、A・P・ヒル部隊の支援にギリギリ間に合った。 アンティータムの戦いでは、師団長のアレクサンダー・ロートンが負傷したあとで、その師団の指揮を執った。リーはその戦果に気をよくして、アーリーを師団長に留めた。フレデリックスバーグの戦いでは、ジャクソンの戦線を突破してきたジョージ・ミードの師団に反撃して、その日を救った。1863年1月17日に少将に昇進した。チャンセラーズヴィルの戦いでは、リーがアーリーに5,000名の兵士を与え、メアリーズハイツでフレデリックスバーグの防衛を行わせ、北軍ジョン・セジウィック少将が指揮する優勢な軍隊(2個軍団)に対抗させた。アーリーが北軍の動きを遅らせ、セジウィック軍を釘付けにすることができたので、リーとジャクソンは西方の北軍の残りを攻撃した。メアリーズハイツのアーリー軍に対するセジウィックの最終的な攻撃は第二次フレデリックスバーグの戦いと呼ばれることがある。
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