ストロエスネル独裁政権時代(1954年-1989年)
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「パラグアイの歴史」の記事における「ストロエスネル独裁政権時代(1954年-1989年)」の解説
チャベスを失脚させた1954年5月のクーデター後、クーデターの黒幕だった陸軍総司令官にしてコロラド党員のアルフレド・ストロエスネルは、形式的選挙を経て同年8月15日に大統領に就任した。ストロエスネルはコロラド党と政府と軍部を自派で掌握することに成功したことに加え、党外の反体制派には戒厳令を敷いて弾圧して、4年に一度の大統領選挙で確実に自身が勝利することを可能にする体制を築きあげ、コロラド党による一党制に近い体制に国家を再編した。ストロエスネル政権が長期化したことには、以上の他にも経済政策に於いて周辺諸国と比較すれば成功を収めたこと、特にアメリカ合衆国や国際通貨基金(IMF)に従って市場開放政策と外資導入を軸に1970年代の工業成長を達成したことや、1954年から1969年までの188の外国人農業移住地を開設することなどで農業成長を達成したことが、体制安定化の大きな要因として挙げられる。また、ストロエスネルの反共主義と親米政策も政権を維持する要因の一つになったと見られ、アメリカ合衆国のみならず、1964年のブラジル・クーデター(英語版)によって成立した親米反共的なブラジルの軍事政権との友好関係も深く、1965年にドミニカ共和国でドミニカ内戦(英語版)が勃発し、社会改革を目指したフランシスコ・カーマニョ(スペイン語版)大佐と敵対する反共的なエリアス・ウェッシン・イ・ウェッシン将軍を支援するためにアメリカ海兵隊が派遣された際には、ブラジル軍の指揮下でパラグアイ軍の歩兵大隊をドミニカ共和国に派遣している。反面、ストロエスネル政権下では密貿易が横行し、1.5%の大土地所有者によって全耕地の90%が所有される程の土地所有の寡占化が進行した。 このようにストロエスネルは成功を収めた独裁者となったが、1980年代に周辺諸国が次々と民政移管する中で、徐々にストロエスネルの個人支配に対する反感が高まり、最終的には1989年2月2日に勃発した陸軍のアンドレス・ロドリゲス(スペイン語版)将軍のクーデターによってストロエスネルはブラジルに亡命し、35年に及んだ独裁体制は崩壊した。
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