スタン・ケントン楽団時代
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「ジューン・クリスティ」の記事における「スタン・ケントン楽団時代」の解説
1945年、シャーリー・ラスターはオーディションを受け、ピアニストのスタン・ケントン(Stan Kenton, 1912-1979)が率いるビッグバンドに迎えられた。ケントンに命名された芸名「ジューン・クリスティ」を名乗るようになったのはこの時である。 二枚目ピアニストであるスタン・ケントンが1940年に結成したこのバンドは、当初単なるダンス・バンドとしてスタートしたが、モダンなスタイルを大胆に取り入れたことで注目され、人気を得た。1940年代後半にはクラリネット奏者ウディ・ハーマンのビッグバンドと並び称せられ、最先端のモダン・ジャズ・ビッグバンドとして第一級の存在であった。この2大ビッグ・バンドから巣立ったクール派、ウエストコースト派の白人ジャズ・ミュージシャンは数多い。 前任者のアニタ・オデイは「自分がジューンをケントンに紹介した」と証言したが、ジューン自身は「アニタの退団を知り、ケントン楽団に自力で売り込みを行った。アニタには世話になっていない」とのちに語っている。 ケントン楽団でのジューンはスインギーな歌唱で、ミリオンセラーとなった「タンピコ(Tampico)」(1945年)などのポピュラー・ヒットを飛ばす一方、ケントンの前衛指向による現代音楽風のテクニカルなナンバーにも習熟し、幅広い歌唱センスを身に着けた。当時の歌唱は、ケントン楽団が専属だったキャピトル・レーベルからの正規版のほか、RCAの放送用録音などにも多く残されている。 1946年、ケントン楽団の同僚であるテナー・サキソフォン奏者のボブ・クーパー(Bob Cooper, 1925-1993)と結婚し、以後終生を共にした。 ケントン楽団には、ダリウス・ミヨーに師事した進歩的な作編曲家でもあったトランペット奏者ピート・ルゴロ(Pete Rugolo, 1915-2011)も在籍していた。ルゴロをはじめ、ケントン楽団時代に培われた西海岸のジャズ・ミュージシャンたちとの人脈は、ソロ活動に移ってからもジューンを助けることになった。 バンドリーダー職の過労で心身ともに限界にあったスタン・ケントンは、1949年、ビッグバンドを一時解散して療養のため南米に去った。これを機にジューンと夫ボブ・クーパーはソロ活動を開始したが、ケントンが1950年にバンドを再結成すると楽団へ復帰した。
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