ジェノヴァの造船技師派遣とは? わかりやすく解説

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ジェノヴァの造船技師派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 07:07 UTC 版)

フランクとモンゴルの同盟」の記事における「ジェノヴァの造船技師派遣」の解説

西欧モンゴル別の連携として、1290年ジェノヴァ軍が海軍活動モンゴル軍援助しようとした際に試みられた。計画では、紅海マムルーク朝の船を攻撃するために2隻のガレー船建造と、船員派遣行いインドとのエジプト貿易遮断する活動を行うことになっていた。ジェノヴァ貿易面でマムルーク朝伝統的な支持者であったため、これは明らかに1285年キリキア・アルメニア王国へのマムルーク朝スルタンカラーウーン攻撃起因する大きな方針変更だった。艦隊建造し船員乗り込ませるために、総勢800人のジェノヴァ人大工、水夫石弓射手戦隊バグダード向かいチグリス川建造作業開始した。しかし、教皇派と皇帝派の争いのため、ジェノヴァ人らはすぐに内部論争へと堕落しバスラ互い殺し合う自体に陥って計画潰えたジェノヴァはついに計画取り消してその代わりマムルーク朝との新し条約調印した。 これら全ての西欧モンゴルの間で共同して攻撃開始する試みは、あまりに小さくあまりに遅かった1291年5月アッコ城塞都市アッコ包囲戦の末、エジプトマムルーク朝によって征服された。教皇ニコラウス4世がこれについて知った時、彼はアルグン書簡書き洗礼受けてマムルーク朝と戦うよう再度頼んだ。しかし、アルグン1291年3月10日に既に亡くなっていた。そして、教皇ニコラウス4世1292年3月亡くなり、彼らの連合した行動への努力終止符打った

※この「ジェノヴァの造船技師派遣」の解説は、「フランクとモンゴルの同盟」の解説の一部です。
「ジェノヴァの造船技師派遣」を含む「フランクとモンゴルの同盟」の記事については、「フランクとモンゴルの同盟」の概要を参照ください。

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