シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタとは? わかりやすく解説

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シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 16:47 UTC 版)

木口小平」の記事における「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」の解説

死しても尚ラッパを口から離さなかったラッパ手噂話は、早く内地伝えられた。そのラッパ手誰かということ話題となり、軍は調査結果そのラッパ手実在し、名は「白神源次郎」であると発表した岡山県浅口郡船穂村(後の倉敷市出身歩兵一等卒白神源次郎武勇国民広く伝えられ、また海外にも発信された。教科書にも採用され7年後に名前を変えられるまで使われた。 日清戦争後に、第5師団司令部は「諸調査結果彼ノ喇叭手白神ニ非ズシテ木口小平ナルコト判明セリ」と発表しなおした白神入営当時21連隊ラッパ手であった予備役召集時点ではラッパ手ではなかった。木口ラッパ手であり白神同日戦死であった。なお白神死因戦闘中溺死であったことも「不都合」とされた。師団発表当時はまった無名木口に名前が置き換わったことに国民の間に驚きもあったし、すでに有名になっていた白神源次郎の名前はなかなか改まらなかった。 白神源次郎記念碑1906年明治39年)に立てられたが、木口小平記念碑たてられたのは1914年大正3年になってからである。義務教育無償化と1903年明治36年)に始まった国定教科書制度で、木口の名前が国民全体徐々に浸透し木口顕彰盛んになった。故郷である岡山県川上郡成羽町現在の高梁市成羽)に「壮烈喇叭手木口小平之碑」がつくられた。さらに、1932年昭和7年)になると、歩兵第21連隊軍人勅諭下賜50周年事業として銅像造った岡山招魂社収められ写真の中から、木口らしい写真選び出して銅像元にしたが、これは木口の顔ではないとの異論もあった。このころ成羽町の碑の周りは「小平園」として整備された。21連隊銅像1950年昭和25年)に濱田護國神社移転されている。 1902年明治35年)に発売され後年正露丸改称される胃腸薬の「忠勇征露丸」に描かれているラッパマーク木口の話を参考にした、との逸話在るが、これは年代的に白神の話ということになる。 尋常小学校修身書より キグチコヘイ ハ テキ ノタマ ニ アタリマシタ ガ、シンデモ ラッパ ヲクチ カラ ハナシマセンデシタ。

※この「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」の解説は、「木口小平」の解説の一部です。
「シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」を含む「木口小平」の記事については、「木口小平」の概要を参照ください。

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