シンクロナイズド・スケーティング時代
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「シンクロナイズドスケーティング」の記事における「シンクロナイズド・スケーティング時代」の解説
1988年、国際スケート連盟に正式種目として認められ、国際スケート連盟の技術委員会とともにコーチ委員会がシンクロ競技の発展に大きく貢献した。現在の強豪チームのいくつかはこの時期に結成されたチームである。当時コーチ委員会に所属していたのは、それらの強豪チームのコーチ等であった。シンクロ界を当時から支えているのは、スウェーデン、フィンランド、アメリカ、カナダの4カ国であるといえる。ジャッジやコーチ向けの手引書が国際スケート連盟から頻繁に発行されたのもこの時期であった。そして、各国で国際スケート連盟協賛の国際試合が数多く開かれるようになった。1996年からは世界選手権開催を視野に入れたワールド・チャレンジ・カップという世界大会が開催されるようになった。2000年に世界選手権が開催されるまで1999年まで4回行われ、現在は同じ名称を冠したジュニアの世界選手権が行われている。1999年「プレシジョン」から「シンクロナイズド・スケーティング」へと名称が変更され、2000年からは世界シンクロナイズドスケーティング選手権が開催されることとなった。第1回大会はアメリカミネアポリスで開催されている。選手の人数は20名に減り、より滑ることを重視されるようになった。 2000年から2004年まで、プレシジョンらしさを保ち、くるくると変わる隊形の美しさを競っていた黄金期といえる。フリー・スケーティングの規程がさほど厳しくなく自由に演技を作ることが出来た時代である。 2005年から新採点システムを導入した。新採点システムへの変更以前から難易度の基準らしきものは存在しており、国際スケート連盟コーチ委員会による文書も発行されていたが、新採点システムへの変更によりレベル選択による点数への反映がはっきりすることになり、多くのチームが同じようなプログラムを作る傾向にある。また、フリースケーティングへの制約も強いため、SPとFSの違いがよくわからないような事態に陥っていたようにも見える。 2000年 - 第 1回世界選手権大会 ミネアポリス(アメリカ) 2001年 - 第 2回世界選手権大会 ヘルシンキ(フィンランド) 2002年 - 第 3回世界選手権大会 ルーアン(フランス) 2003年 - 第 4回世界選手権大会 オタワ(カナダ) 16カ国21チーム出場 2004年 - 第 5回世界選手権大会 ザグレブ(クロアチア) 18カ国23チーム出場 2005年 - 第 6回世界選手権大会 イヨテボリ(スウェーデン) 15カ国20チーム出場 2006年 - 第 7回世界選手権大会 プラハ(チェコ共和国) 16カ国21チーム出場 2007年 - 第 8回世界選手権大会 ロンドン(カナダ) 17カ国22チーム出場 2008年 - 第 9回世界選手権大会 ブダペスト(ハンガリー) 18カ国23チーム出場 2009年 - 第10回世界選手権大会 ザグレブ(クロアチア) 18カ国23チーム出場 2010年 - 第11回世界選手権大会 コロラドスプリングス(アメリカ)18カ国23チーム出場
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