シスコの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:42 UTC 版)
「第三南遣艦隊戦時日誌」など日本側の記録よれば、9月28日にパナイ島ナソ角沖で特務艦早鞆の護衛としてパレンバンからマニラに向かっている途中の唐津が、海上に漏出した油を観測した。唐津は元はアメリカ海軍の砲艦ルソン (USS Luzon, PR-7) であり、元の所有者に対して攻撃したことになる。唐津は油が漏出している地点に爆雷攻撃を行った後通報。唐津から通報を受けた九五四空の九七式艦攻2機が飛来し、唐津の上空を援護した。9時45分、唐津は浅い深度にいたシスコと思しき潜水艦を探知するも、すぐに見失った。11時20分ごろに監視していた九五四空機のうち1機が燃料と爆弾の補給のため一時離脱し、残る1機によって監視が続けられた。正午過ぎになって監視中の1機が対潜爆弾で潜水艦を爆撃。13時前に再度爆撃すると重油が噴出した。唐津も爆雷攻撃を再開し、燃料と爆弾を補給した1機も攻撃に加わった。その結果、重油の噴出が激しくなった。おそらく、これがシスコの最期を示すものだったと考えられる。その後17時15分まで監視を続け、10月1日に特設捕獲網艇興嶺丸(三光汽船、540トン)と特設掃海艇第十八長運丸(西海汽船、195トン)が現場を再度攻撃した。シスコから流れ出た重油は、10月10日に到っても噴出が止まっていなかったという。殊勲の唐津は、1944年3月3日にスル海東部で米潜水艦ナーワル(USS Narwhal, SS-167)の雷撃を受け船体前部を切断大破。曳航されてマニラに帰投し、修理中であった1945年2月5日、日本軍撤収のため爆破処分された。 シスコの乗組員の一人、主任通信士のハウエル・B・ライスはただ一人生き残った。彼はダーウィンで病気になり海軍病院に入院していた。
※この「シスコの最期」の解説は、「シスコ (潜水艦)」の解説の一部です。
「シスコの最期」を含む「シスコ (潜水艦)」の記事については、「シスコ (潜水艦)」の概要を参照ください。
- シスコの最期のページへのリンク