シク軍のチベット侵攻とは? わかりやすく解説

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シク軍のチベット侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/21 06:56 UTC 版)

清・シク戦争」の記事における「シク軍のチベット侵攻」の解説

当時シク王国武将ゾーラーワル・シングはラダック駐屯しており、バルティスターン征服した。彼はバルティー人を軍隊引き入れ、軍はドーグラージャンムーキシュトワールラダックからの兵士そろっていた。その軍勢は5,000から6,000に及び、1841年5月3つの縦隊分けられチベット向けて侵攻した。ゾーラーワル・シングはチベット防衛が弱いことを知っていた。この時期ダライ・ラマ空位時期でもあった。そして、ゾーラーワル・シングに指揮され軍勢チベット西部ガリ地区侵入し戦争勃発した縦隊1つラダック王子ノノ・サンガムに率いられインダス川からその水源であるマーナサローワル湖向かった。グラーム・ハーンが率いた300縦隊インダス川の南、カイラーシュ山脈沿って進んだ。ゾーラーワル・シング自身は3,000軍勢率い広大美しパンゴン湖位置する高原沿って進んだ。彼らは武器品質のおかげもあって、侵攻をうまく進めたが、チベット人ゲリラ戦術地元地形知識生かして抵抗したチベット人抵抗席巻したのち、3つの縦隊マーナサローワル湖越えガル駐在していたチベット軍を破り、その地を支配下置いたチベット軍の司令官はタクラコートに逃げたが、同年9月6日にゾーラーワル・シングはその城を急襲したそのときチベット使節ネパール王国の王の代理としてきた。タカラコートからネパール王国までわずか15マイルであったシク王国軍勢ダバ、トゥリン、ルトク、ガルトク、タクラコートの都市占領した。ゾーラーワル・シングは都市守備隊を置き、占領地支配するために行政敷いた一方パンジャーブにはイギリス使節が赴き、ネパールが清軍に援助求めている間に、軍を撤退するようにシク王に圧力をかけた。 タクラコートの陥落聞いた清の駐大臣・孟保はラサにおり、シク軍に対抗するためには増援が必要であると悟ったが、本国からは援軍送られてくることはなかった。清はイギリスとのアヘン戦争のため援軍派遣することができなかったのであるシク軍にガリ地方ルトク地方市街占領されたのち、チベット軍は反撃したが、ラダック敗れたラダックでの敗戦ののち、同年秋にチベット政府はスルカン・ツェテン・ドルジェ(スルカンパ・ツェテンドルジェ)、ドカルワの二大臣将軍選んで応戦した

※この「シク軍のチベット侵攻」の解説は、「清・シク戦争」の解説の一部です。
「シク軍のチベット侵攻」を含む「清・シク戦争」の記事については、「清・シク戦争」の概要を参照ください。

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