シク軍のチベット侵攻
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「清・シク戦争」の記事における「シク軍のチベット侵攻」の解説
当時、シク王国の武将ゾーラーワル・シングはラダックに駐屯しており、バルティスターンを征服した。彼はバルティー人を軍隊に引き入れ、軍はドーグラーのジャンムー、キシュトワール、ラダックからの兵士がそろっていた。その軍勢は5,000から6,000に及び、1841年5月に3つの縦隊に分けられ、チベットに向けて侵攻した。ゾーラーワル・シングはチベットの防衛が弱いことを知っていた。この時期はダライ・ラマ空位の時期でもあった。そして、ゾーラーワル・シングに指揮された軍勢はチベット西部のガリ地区に侵入し、戦争が勃発した。 縦隊の1つはラダックの王子ノノ・サンガムに率いられ、インダス川からその水源であるマーナサローワル湖に向かった。グラーム・ハーンが率いた300の縦隊はインダス川の南、カイラーシュ山脈に沿って進んだ。ゾーラーワル・シング自身は3,000の軍勢を率い、広大で美しいパンゴン湖に位置する高原に沿って進んだ。彼らは武器の品質のおかげもあって、侵攻をうまく進めたが、チベット人はゲリラ戦術と地元の地形の知識を生かして抵抗した。 チベット人の抵抗を席巻したのち、3つの縦隊はマーナサローワル湖を越え、ガルに駐在していたチベット軍を破り、その地を支配下に置いた。チベット軍の司令官はタクラコートに逃げたが、同年9月6日にゾーラーワル・シングはその城を急襲した。そのとき、チベットの使節がネパール王国の王の代理としてきた。タカラコートからネパール王国までわずか15マイルであった。 シク王国の軍勢はダバ、トゥリン、ルトク、ガルトク、タクラコートの都市を占領した。ゾーラーワル・シングは都市に守備隊を置き、占領地を支配するために行政を敷いた。一方、パンジャーブにはイギリスの使節が赴き、ネパールが清軍に援助を求めている間に、軍を撤退するようにシク王に圧力をかけた。 タクラコートの陥落を聞いた清の駐藏大臣・孟保はラサにおり、シク軍に対抗するためには増援が必要であると悟ったが、本国からは援軍が送られてくることはなかった。清はイギリスとのアヘン戦争のため援軍を派遣することができなかったのである。シク軍にガリ地方、ルトク地方の市街が占領されたのち、チベット軍は反撃したが、ラダックで敗れた。ラダックでの敗戦ののち、同年秋にチベット政府はスルカン・ツェテン・ドルジェ(スルカンパ・ツェテンドルジェ)、ドカルワの二大臣を将軍に選んで応戦した。
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