ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国
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- ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国
- Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach
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(国旗) (国章) - 国歌: Weimars Volkslied
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ドイツ帝国内におけるザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国 -
首都 ヴァイマル - 大公
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1815年 - 1828年 カール・アウグスト 1901年 - 1918年 ヴィルヘルム・エルンスト - 変遷
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大公国に昇格 1815年 滅亡 1918年
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ(ドイツ語: Sachsen-Weimar-Eisenach)は、ドイツ中部のテューリンゲン地方にあった領邦国家。首都はヴァイマル。1741年から1815年まで公国、1815年から1918年まで大公国であった。
1903年に正式な国号をザクセン大公国(ドイツ語: Großherzogtum Sachsen)へと改めたが、ザクセン王国との区別のためもあり、それ以後もザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国(ドイツ語: Großherzogtum Sachsen-Weimar-Eisenach)の名で呼ばれることが多い。
地理

ドイツ帝国のもとでテューリンゲン諸邦と総称された領邦群のうちのひとつである。
ドイツ帝国時代の領土は大きく分けて3つ、すなわち西部の旧ザクセン=アイゼナハ公国領、中央部の旧ザクセン=ヴァイマル公国領、東部のノイシュタットに分けられ、このほか大小多数の飛び地があった。旧ザクセン=ヴァイマル公国の地域には、首都ヴァイマルや、イェーナ大学を擁する大学町イェーナがある。旧ザクセン=アイゼナハ公国の中心地アイゼナハは、J・S・バッハの出生地として知られる。
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国の領土は、他のテューリンゲン諸国のすべて(ザクセン=アルテンブルク公国、ザクセン=コーブルク=ゴータ公国、ザクセン=マイニンゲン公国、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国、ロイス=グライツ侯国、ロイス=ゲーラ侯国)の領土と境を接し、またプロイセン王国、ザクセン王国、バイエルン王国と隣接していた。
歴史



ザクセン=ヴァイマル公国とザクセン=アイゼナハ公国は、1741年にヴェッティン家エルンスト系アイゼナハ家のヴィルヘルム・ハインリヒ公の死去により同家系が断絶したのち、ヴェッティン家の一員が同君連合として統治する体制となった。初代の同君連合公はエルンスト・アウグスト1世であり、ヴァイマルにベルヴェデーレ宮殿(英語版)を築いた。子のエルンスト・アウグスト2世は在位わずか3年、20歳で没した。彼は18歳でプロイセン王フリードリヒ大王の姪に当たるブラウンシュヴァイク公女アンナ・アマーリア(1歳年少)と結婚し、翌年に長子カール・アウグストを、その翌年に次子コンスタンティン(英語版)をもうけたが、その時にはすでに未亡人となっていた。
未亡人公爵夫人アンナ・アマーリアは、マリア・テレジア皇后の承認と、篤実な大臣フリッチュ男爵の支えを得て、積極的に摂政職を引き受けた。彼女は子らの教育係として詩人クリストフ・マルティン・ヴィーラント(エアフルト大学教授)を招聘した。
カール・アウグストは18歳でヘッセン=ダルムシュタット公女ルイーゼと結婚した。彼は詩人ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテを登用し、やがて親交を結んだ。ゲーテはさらに著述家ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー、フリードリヒ・シラーをヴァイマルに招き、(背後でアンナ・アマーリアの支援を受けつつ)ヴァイマル古典主義(英語版)の基盤を築いた。後代の統治者はこの遺産の保護を主要課題と見なした。
1804年、カール・アウグスト公の嫡子で世子のカール・フリードリヒは、ロシア皇帝アレクサンドル1世の妹マリア・パヴロヴナ・ロマノワと結婚した。この縁組はエルネスティン系ザクセン=ヴァイマル家の台頭を決定的に促し、ナポレオン戦争の騒乱期に公国へ一定の保護をもたらした。第四次対仏大同盟戦争では当初プロイセン王国側に与したが、カール・アウグスト公は1806年12月15日にライン同盟へ加入して廃位を免れた。
1809年の公式合併後、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ公国は、北の首都ヴァイマル周辺と西のアイゼナハ周辺の分離した地区から構成された。ロシアとの結びつきにより、公国は1815年のウィーン会議で大幅な加増を受け、東方ではザクセン王国からノイシュタット管区(629平方キロメートル=243平方マイル)の大部分を獲得した。さらに、戦前はマインツ大司教領の飛地で、占領下にはフランス直轄領として管理されていたエアフルト侯領(英語版)の大部分を得たほか、ブランケンハイン(英語版)、クラニヒフェルト(英語版)などの小領も加えた。レーン山地(英語版)では、ヘッセン=カッセル旧領の隣接部分と、世俗化されたフルダ修道院侯領(英語版)の所領からアイゼナハ高地(独語版)が形成された。最終的に同国は大公国へ昇格し、エルネスティン系ヴェッティン家のうち唯一の「大公」を戴く家系となった(他の諸系統は複数の「公」を有した)。同時期にアルベルティン系はザクセン王位に昇った。
コスモポリタン的思想を有したカール・アウグスト大公は、1816年5月5日にドイツで最初の自由主義的憲法を大公国に与えた。イェーナ大学の学生はドイツ最初の学生同盟ウルブルシェンシャフト(英語版)を結成し、1817年10月にヴァルトブルク城でヴァルトブルク祭(英語版)を開催した。多くの自由主義者が参加し、演説者の多く(大半は学生)はドイツにおける最初期の民主主義者と見なされる。
1828年から大公妃であったマリア・パヴロヴナは、フランツ・リストやペーター・コルネリウスら作曲家を庇護した。彼女の息子で1853年に大公となった芸術愛好家カール・アレクサンダー(1818–1901)もまた、特に音楽を支援した。妃ゾフィーは彼の構想を支持し、荒廃していたヴァルトブルク城を当時のロマン主義的歴史主義様式で再建し、モーリッツ・フォン・シュヴィントに壁画を描かせた。さらに、消極的ながらヴァイマルの工芸学校創設を支援し、同校は1919年に合併してバウハウス大学ヴァイマルとなった。
大公国は1815年からドイツ連邦に加盟していたが、1848年のドイツ革命の深刻な影響は受けず、以後二十年にわたるオーストリア帝国とプロイセン王国の対立期にも中立を保った。普墺戦争後は北ドイツ連邦に加盟し、1871年には構成邦として新生ドイツ帝国に参加した。
1901年、カール・アレクサンダーの後を孫のヴィルヘルム・エルンストが継ぎ、最初の妃はグライツのロイス家のカロリーネ、のちにザクセン=マイニンゲン公女フェオドラと再婚した。1903年には国名を正式に「ザクセン大公国」へ改称したが、隣接するザクセン王国との混同を避けるため、「ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ」の呼称は引き続き広く用いられた。
1918年11月9日、ヴィルヘルム・エルンストは退位し、同国における君主制は終焉した。その後はザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ自由州として存続し、1920年に周辺諸国の大半と合併してテューリンゲン州となり、州都はヴァイマルに置かれた。
宗教
ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国では、テューリンゲン諸邦と同様、ルター派が優勢であった。1895年の総人口339,217人の宗教別内訳は次のとおりである。
福音派(ルター派): 325,315人(95.9%)
カトリック: 12,112人(3.6%)
ユダヤ教徒: 1,290人(0.4%)
その他/無宗派: 500人(0.1%)
アイゼナハ管区の内訳はやや異なり、人口95,226人のうち、
福音派: 85,319人(89.6%)
カトリック: 8,809人(9.3%)
ユダヤ教徒: 979人(1.0%)
その他/無宗派: 119人(0.1%)
であった。アイゼナハ管区のカトリックおよびユダヤ人の少数派は主としてレーン山地に居住し、ガイサ(英語版)周辺は主としてカトリックで、フルダ教区(英語版)に属した。
憲法と行政
1816年5月5日の憲法(1850年10月15日改正)により、ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハは男系継承の立憲君主国とされた。1852年の選挙法では、州議会(英語版)は31名で構成され、そのうち21名が公選であった。残る10名のうち、1名は旧帝国騎士(英語版)の土地所有者、4名はその他の富裕な地主、5名は年収1,000ターラー超の収入を他の源泉から得る有権者によって選出された。後者は通俗的に「千ターラーの男たち」と呼ばれた。1896年4月17日の選挙法改正により議会は33名に拡大された。大公国は連邦参議院で1票、帝国議会に3議席を有した。
1909年には、のちに州議会議長となるアルフレート・アッペリウスの主導で普通選挙が導入されたが、大土地所有者と「千ターラーの男たち」の特別票は維持され、さらにイェーナ大学、商業会議所、手工業会議所、農業会議所、労働会議所の代表5名が特別議員として追加された[1]。
最高裁判機関はイェーナの控訴院で、テューリンゲン諸邦すべてからの上訴を扱った。地方裁判所はヴァイマルとアイゼナハに置かれた。
軍事面では歩兵連隊を1個保有し、1871年以降はドイツ帝国陸軍第11軍団隷下に編入された。
君主一覧
- ザクセン=ヴァイマル公およびザクセン=アイゼナハ公
- ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公
- カール・アウグスト(1815年 - 1828年)
- カール・フリードリヒ(1828年 - 1853年)
- カール・アレクサンダー(1853年 - 1901年)
- ヴィルヘルム・エルンスト(1901年 - 1918年)
脚注・出典
- ^ The new Electoral Act, in: Berliner Tageblatt, morning edition of 5 March 1909, p. 2
- Carl Ferdinand Weiland: General Charte von dem Großherzogthume Weimar-Eisenach nach den besten vorhandenen Hülfsmitteln entworfen und gezeichnet von C. F. Weiland, Geographical Institute of Weimar, 1817, reprinted: Rockstuhl, Bad Langensalza 2009, ISBN 978-3-86777-136-8,
- Karl Helmrich: Geschichte des Großherzogthums Sachsen-Weimar-Eisenach für Schule und Haus, Albrecht, Weimar, 1852,
- Constantin Kronfeld (1878) (ドイツ語), Geschichte des Landes, Landeskunde des Großherzogthums Sachsen-Weimar-Eisenach, 1, Weimar: Hermann Böhlau
- Constantin Kronfeld (1879) (ドイツ語), Topographie des Landes, Landeskunde des Großherzogthums Sachsen-Weimar-Eisenach, 2, Weimar: Hermann Böhlau
- Detlef Ignasiak (1996) (ドイツ語), Regenten-Tafeln Thüringischer Fürstenhäuser. Mit einer Einführung in die Geschichte der Dynastien in Thüringen, Jena: Quartus, ISBN 3-931505-20-0
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