サーキットの設備問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 22:00 UTC 版)
「1955年のル・マン24時間レース」の記事における「サーキットの設備問題」の解説
当時の一般的なサーキットはピットレーンと本コースが区切られておらず、ピットに出入りする低速のマシンと高速走行中のマシンが接触する危険性は常にあった。しかも、サルト・サーキットの場合はコース幅が非常に狭く、ピットへの減速レーンが設けられていなかったため、周回遅れのマックリンとピットへ向かうホーソーンが同じ車線を通る結果を招いた。さらに、ピットレーン手前は緩やかな右コーナーとなっているため、コースアウトするとコース左側の観客席に向かう格好となる上、観客席がコースに近く防護柵などが備わっていなかったことも被害の拡大に影響した。 マックリンは事故調査の専門家から聞いた話として、「もしルヴェーのマシンの跳んだ方向が15cmずれていたら、階段の壁に当たらずスタンドに飛び込み1,000人以上は死傷していただろう、自分かファンジオがホーソーンにぶつかってピットに飛び込んだら、燃料タンクのあるピットは大火災になっただろう」と語っている。 本件ののち、西部自動車クラブは自治体から多額の借款をうけて改修工事を行い、ピット施設を取り壊してコース幅を広げた(後退した位置に3階建てのピットが新築された)。スタンドとコースの間には溝が設けられた。また、ドライバーがチームの指示を見やすくなるよう、ユノディエールの直線の終わりの低速コーナー、ミュルサンヌにサインボードエリアが新設された。これらの準備のため、1956年大会は例年より1か月遅い7月28日から7月29日に開催された。
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