サライ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 09:00 UTC 版)
「ウズベク州の君主」トクタミシュ・ハンが中央アジアのティムールと対立して没落して以後、ジョチ・ウルスでは20年にわたって傀儡ハンを擁立するマングト部のエディゲと、トクタミシュとその遺児たちとの間で抗争が繰り広げられていた。1419年にエディゲとトクタミシュの子のカーディル・ベルディが相打ちの形でともに没したことで、両者に取って代わる形で台頭してきたのがウルグ・ムハンマドであった。1419年、カーディル・ベルディ配下の有力者であったコンギラト部族のハイダル・ベグはシリン部族のテクネと協議してトクタミシュと近縁のウルグ・ムハンマドを推戴することを決め、有力部族の支持を得たウルグ・ムハンマドは同年サライを奪取し、更に1419年にはハジタルハン(後のアストラハン)も支配下に置いた。以後、ウルグ・ムハンマドは20年近くに渡ってサライを保持することでジョチ・ウルスの正当なハンと見なされたが、その勢力は極めて限定的なものであって、一時的にサライから逐われることさえあった。ウルグ・ムハンマドのように、サライを抑えることでジョチ・ウルスの正当な後継者と認められながら、著しく支配領域を縮小させた勢力のことを当時の中料では「大オルダ」と呼称している。 ウルグ・ムハンマドの台頭と同時期に、東方の青帳ハン国で急速に勢力を拡大しつつあったのがバラク・ハンで、エディゲの子のマンスールの協力を得たバラク・ハンは1422年にウルグ・ムハンマドからサライを奪った。サライを失ったウルグ・ムハンマドはリトアニア大公国のヴィータウタスに援助を求め、1424年〜1425年にクリミア地方で再起したウルグ・ムハンマドは1426年にバラク・ハンからサライを再奪取した。カーディル・アリー・ベグの『集史』によると、バラクは同盟関係にあったマンスールを殺害したことでエディゲ一族の恨みを買い、マンスールの弟のカーディーとナウルーズはクチュク・ムハンマドを擁立し、バラクはクチュク・ムハンマド軍との抗争の中で戦死したという。 バラクの没落後、ジョチ・ウルス西部(白帳ハン国)ではサライに拠るウルグ・ムハンマドとハジタルハンに拠るクチュク・ムハンマドが覇を競ったが、クチュク・ムハンマドとエディゲの遺児たちが対立し、その一人ナウルーズがウルグ・ムハンマドの下に投降してきたことで形成は一時ウルグ・ムハンマドの側に傾いた。ところが、ウルグ・ムハンマドは新参のナウルーズを厚遇したことで旧来の家臣であるコンギラト部族のハイダル・ベグやシリン部族のテクネの離反を招き、両者はウルグ・ムハンマドを見限ってクリミア地方に赴き、そこでトクタミシュ・ハンの孫のサイイド・アフマドを擁立した。こうして、ジョチ・ウルス西部にはクリミア一帯を抑えるサイイド・アフマド、サライ一帯を抑えるウルグ・ムハンマド、ハジタルハンを抑えるクチュク・ムハンマドの3大勢力が鼎立する状態となったが、これらは後のクリミア・ハン国、大オルダ、アストラハン・ハン国の前身となった。 1433年から1436年にかけて続いたサイイド・アフマド、ウルグ・ムハンマド、クチュク・ムハンマドの「3竦み」は、マングト部のナウルーズがウルグ・ムハンマドを見限って再びクチュク・ムハンマドの下についたことで瓦解した。ナウルーズの勢力を失ったウルグ・ムハンマドはサイイド・アフマドとクチュク・ムハンマドに相継いで敗れたため、1437年には遂にサライを逐われ、3000人の配下を率いて北方のカザンに移住した。
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