サヨンの遭難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 08:21 UTC 版)
1938年(昭和13年)、日本統治下の台湾・台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査田北正記に召集令状が届き、出征することとなった。リヨヘン社は台湾原住民族のタイヤル族の村である。 その巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていたため、下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨン(中国語版)(Sayun Hayun/漢字では莎韻)もその一人だった。一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑らせて増水した川に落ち、命を落とした。 この話は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした、ということから、台湾先住民宣撫のための格好の愛国美談となって広まり、長谷川清台湾総督によってサヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられた。これが「サヨンの鐘」と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。 「大東亜戦争」勃発後の1943年、山地名の日本色強化政策により、サヨンの故郷・リヨヘンもこの物語により鐘ヶ丘(かねがおか)に改称された。
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