サラとの決別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/15 07:00 UTC 版)
「アン (イギリス女王)」の記事における「サラとの決別」の解説
マールバラ公爵夫人となったサラは女王の側近にあって夫の代弁者となり、戦争の遂行を女王に進言していたが、次第に女王は和平推進派に傾き始め、サラを疎むようになった。また、サラが支持していたホイッグ党を嫌っていて、1705年からゴドルフィンが政権運営の必要上ホイッグ党と連携したことにも不満を抱き、サラの従妹アビゲイル・メイシャムを重用しトーリー党に近付いていった。 1710年、アンはついにサラを宮廷から追放、同年に行われた選挙の結果、和平推進派のトーリー党が政権の座についた。ゴドルフィンは更迭されトーリー党の指導者ロバート・ハーレー、ヘンリー・シンジョンらが政権の頂点に立ち和平に動き、マールバラ公の軍資金横領疑惑の調査が行われ、翌年に横領が報告されてマールバラ公は失脚した。主戦論者マールバラ公の失脚でスペイン継承戦争は和平交渉が開始され、1713年にユトレヒト条約が締結された。この条約でイギリスは、現在に至るまで領有しているジブラルタルなど複数の海外領土を獲得した。 アンは肥満体質(ブランデーの飲み過ぎが原因だったと伝えられている)で、どこへ行くにも輿に乗っていたが、晩年は全く歩くことができないほど肥満が進み、宮殿内を移動するにも車椅子を使っていた。崩御後の棺桶は正方形に近いものだったという。また、旧友の1人エリザベス・シーモアとは死去するまで親交を結び、エリザベスを戯詩『ウィンザーの予言』で非難したジョナサン・スウィフトに対して昇進を妨害している。
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