サドル家とは? わかりやすく解説

サドル家(サドル派)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:02 UTC 版)

サドル (イスラム)」の記事における「サドル家(サドル派)」の解説

イラクのサドル家は、1957年ダアワ党設立しシーア派イスラム法学者による積極的な政治参加目指すイスラム主義運動の創始者となったムハンマド・バーキル・サドル(英語版)が出たことで政治的に重要な家系となったイランコム出身で、レバノンシーア派政党アマル創設者であったムーサー・アッ=サドル英語版)もイラクのサドル家出自であるともいわれる。 ムハンマド・バーキル・サドルが1980年サッダーム・フセイン政権の手によって殺害されダアワ党系のシーア派政治指導者がほとんどイラン亡命した後もムハンマド・バーキル従兄弟であるムハンマド・サーディク・アッ=サドル英語版)は従兄弟教えに従ってイラク信徒政治的に指導する活動続け首都バグダードに多いシーア派貧困層支持広げ、これがいわゆるサドル派である。しかし、ムハンマド・サーディク・アッ=サドル英語版)も1999年殺害された。 サドル派を引き継いだ息子ムクタダー・サドル父親ほど求心力がなかったため、サドル派は急速に影響力失い政治表舞台から姿を消す。しかし、2003年イラク戦争政権打倒されると、バグダードシーア派貧困層住民の多い地区サッダームシティがサドルシティと呼ばれるうになるまで勢力急速に拡大民兵組織マフディー軍結成した。この動き対しサドル派内では父親以来派閥ムクタダー・サドルに従う過激派との派閥分裂した俗にサドル派、息子サドル派などと言われるムクタダー・サドル年若くイスラム法学者としての位階も低いためイラクシーア派住民主流となることはないとみられているが、サドル派にシーア派指導者のひとりアブドゥルマジド・ホイの殺害に関わった容疑かかったのをきっかけ2004年春にアメリカ軍との戦闘入り、イラク・シーア派中の反米指導者として位置付けられることとなった

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