コンペ以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:52 UTC 版)
聖堂建設計画を進めて行くにあたって、1948年(昭和23年)に朝日新聞社の後援のもとでコンペ方式を採用して設計案を広く日本全国から募ることになったが、実はこのコンペの前にラッサール神父は、内々に複数の建築家に設計を依頼している。以下はそれを伝える新聞記事である。 ……広島市幟町に再建される原爆記念聖堂は既報のように日本人に限るという条件で全国から設計図を募集することになった。同教会ラサール神父は上智大学に在るドイツ人建築家グロッパー氏、知り合いのチェコ・スロヴァキア人建築家スワガー氏、地元広島市の建築家小田能清、河内義就、椋原正訓氏に設計を依頼、これらのうちから最善のものを得たい希望であったが前記五氏の設計図を検討した結果、日本人側の作品が同神父の抱く感覚にぴったりするので広島原爆の意義からしても日本人のなかから設計者を選ぶことになり改めて今度の募集となったものである。 — 1948年3月30日付け朝日新聞より抜粋 つまり最初からコンペによって設計を決しようとしたのではなく、本コンペの前にプレ・コンペともいえるものが行われているのである。そのプレ・コンペを通じてラッサール神父が求めていた建築の方向性と、その建築が持つべき性格がより明確となり、かつ求めている建築の理想の高さと建築設計の困難さもまたはっきりとした。それで結局、広く叡智を日本建築界から集めるべく、募金集めのための話題作りとの一石二鳥を狙って、高額賞金による第二次世界大戦後日本建築界最大級のコンペへとつながって行ったと考えられる。
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