グロース・フリードリヒスブルク植民地
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「ブランデンブルク=プロイセン」の記事における「グロース・フリードリヒスブルク植民地」の解説
詳細は「ブランデンブルク領黄金海岸」を参照 1679年、ラウレはフリードリヒ・ヴィルヘルムにアフリカのギニアでの植民地建設計画を提出し、フリードリヒ・ヴィルヘルムはそれ計画を許可した。1680年7月、フリードリヒ・ヴィルヘルムは計画実施の命令を出し、アフリカの部族との貿易関係の確立と植民地建設に適する地点の探索という2つの任務を全うするための船2隻が選ばれた。9月17日、フリゲートの「ヴァッペン・フォン・ブランデンブルク」(Wappen von Brandenburg)とモリアン(Morian)がギニアに向けて出発、1681年1月に到着した。しかし、ヴァッペン・フォン・ブランデンブルクの船員がオランダ西インド会社の主張する領土でアフリカ人にブランデーを売ったため、オランダ西インド会社は3月にヴァッペン・フォン・ブランデンブルクを没収、一方でモリアンの船員はオランダに追い出される前の5月16日にギニア人酋長3人と契約を締結することに成功した。この契約は公式には貿易協定とされたものの、酋長がフリードリヒ・ヴィルヘルムの宗主権を認めるという条項とブランデンブルク=プロイセンによる要塞建設を許可する条項が含まれたため、ブランデンブルク=プロイセンの植民地建設の始まりとされた。 植民地事業を推進すべく、ブランデンブルク・アフリカ会社(ドイツ語版)が1682年3月7日に設立され、本社はベルリンに、造船所はピラウ(1683年にエムデンに移転)に設けられた。しかし、ブランデンブルク・アフリカ会社は設立から解散までを通して資金不足であり、ラウレやフリードリヒ・ヴィルヘルム自身などが私財を投じて遠征の資金を提供することとなった。1682年7月、東プロイセン出身のオットー・フリードリヒ・フォン・デア・グレーベン(英語版)率いる遠征隊がギニアに派遣され、グロース・フリードリヒスブルク砦(ドイツ語版)を建てた。1684年2月24日には再び現地の酋長と条約を締結して、近くのアッカダ(英語版)(Accada、現ガーナ領アクィーダ)で2つの砦を建設する許可を得た。この2つ目の砦はフリードリヒ・ヴィルヘルムの2人目の妻に因んでドロテーンシャンツェ(Dorotheenschanze、シャンツェは防御工事の一種)に名付けられた。1685年2月4日、グロース・フリードリヒスブルクの約30km東にあるタッカラリ(Taccarary、現ガーナ領タコラディ)で3つ目の条約が締結された。そして、グロース・フリードリヒスブルクとドロテーンシャンツェの間にあるタクラマ村(Taccrama)の近くで4つ目の砦が建設され、ゾフィー=ルイーゼ=シャンツェ(Sophie-Louise-Schanze)と呼ばれた。合計としてはグロース・フリードリヒスブルク植民地が海岸線の約50kmにわたる長さを占拠したが、内陸への拡張はしなかった。
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