クラクフでの晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/05 22:24 UTC 版)
「ファウスティナ・コヴァルスカ」の記事における「クラクフでの晩年」の解説
1936年に、ソボチコ神父は、最初の神の慈しみへの信仰についての小冊子を書き上げ、ヤウブルジコフスキ大司教は、それに賛同し、許可した。小冊子には神の慈しみのイメージがカバーとしてかけられていた。 ソポチコ神父はワルシャワのファウスティナにその1冊を贈った。 1936年の後年、ファウスティナは病に倒れ、結核と推測された。ファウスティナはクラクフのプラドニク(Prądnik)にあるサナトリウムに移された。彼女は祈りに多くの時間を費やし、チャプレットを繰り返して罪人の改心のために祈った。ファウスティナの晩年の2年間は祈りと日記を付けることに費やされた。 1937年の3月23日にファウスティナは日記に、彼女は神の慈しみの饗宴は彼女の田舎の教会で行われるであろう、そして、大ぜいの群衆が参列し、同時にローマでもそれは執り行われ、教皇も参列するであろう。と書いている(ノート 3 , 1044)。 1937年に最初の神の慈しみのイメージの御絵が刷りあがった。8月にはソポチコ神父はファウスティナに 神の慈しみのチャプレットの祈り方を書いてくれるよう頼んだ。それは、ファウスティナが1937年の聖金曜日にイエスからのメッセージとして受け取ったものである。 1937年の間、ずっと神の慈しみの運動は進められ、1937の11月には「キリスト、慈しみの王」と題したパンフレットが発行された。このパンフレットにはチャプレットの祈りとノベナ、そして、神の慈しみへの嘆願、そして神の慈しみのイメージ画が「イエスはあなたの中にいる」の言葉と共に描かれていた。1937年の11月10日、ファウスティナの上司であるイレーニ修道院長がファウスティナが休んでいる間、その小冊子を見せた。1937年末には、ファウスティナの健康が悪化したとたんに、ファウスティナの報告するビジョンが多くなった。そして彼女は人生が終わりを迎えることを楽しみにしていると語った。1938年4月には、彼女の病気が悪化し、休養のためプラドニク(Prądnik)にあるサナトリウムに送られた。そこで彼女は人生の最後を送った。 1938年の9月26日にソボチコ神父はサナトリウムにいるファウスティナを訪ね、大変衰弱しているが、恍惚状態の中で祈っているかのような状態であるのを見た。1ヶ月後には、死を待つためにクラクフの家に連れて行かれた。 ファウスティナは33歳で、1938年の10月5日に死去した。同年10月7日に埋葬されたが、現在は、神の慈しみの大聖堂に眠っている。
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